ヴォルテール 「ザディーグ」 人間の一生とは


18世紀フランス啓蒙主義の巨人ヴォルテール(ボルテール)が著した哲学コンテである。哲学コンテとは、哲学的な題材を素描した物語で、ヴォルテールはこの物語の中で伝統、慣習、宗教などの古い考え方に対して批判的なまなざしを投げかけている。「ザディーグ」は中東のバビロンを舞台としており、主人公を中心に王や王妃、宮廷の人々の波乱に富んだ筋立ては、表面的にはまるで「千一夜物語」のような印象を与え、おとぎ話の世界を髣髴とさせる。

いったい、人間の一生とはなんだろう。(p.132)

しかし、その実はヴォルテール時代のフランス社会、特にパリの宮廷や社交界を批判するのに、バビロンを借りているだけであり、また、「千一夜物語」と違って主題は哲学的に深く、バビロンの青年ザディーグが翻弄される数奇な運命を描きながら、生きるとは何か、運命とは何か、という深い問いかけを投げかけているのである。人間の一生のうちにある幸福とは不幸とは何なのか、何故正しい者が不幸になり、悪を働くものが幸福を得るのか、本当に神はいるのか。

すべては必然的につながっていて、最善のために配剤されています。

ザディーグ執筆時期におけるヴォルテールの人生観は、ライプニッツが唱えたという最善説を基にしており、人生の意味についての問いかけへの答えも、最善説によるものとなっている。人生において我々の眼前に生じる事象は全て最善のものであり、自分にとって有益なことであるが、それは神によって配慮されているのである。ある時点で不幸に陥っていても、それは最善のことである、何故ならば将来にもっと大きな幸福を得られるための準備となっているのだから、そんな前向きで楽天的にも見える考え方である。

「千一夜物語」のように、破天荒な筋が展開する素描を追いかけなくとも、毎日を力強く生きていくために必要な力を与えてくれるのは、最善説のような楽天的な考え方であろう。しかし、本当にそうだろうか。人生の事象を注意深く観察し、十分に深く思索を行う者に、この最善説は正しいと受け入れられるか、あるいは少なくとも共感を得る位の説得力を持ちうるのか、というとそれは疑問である。実は、「ザディーグ」の後に執筆された「カンディード」の中で、さらに深まったヴォルテールの人生観による答えが準備されている。

「カンディード」 岩波文庫 ヴォルテール著 植田祐次訳



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