ポオ 「ウィリアム・ウィルソン」 主観が語ること

ポオ(エドガー・アラン・ポー)の作品には、物語の主人公が自ら語る形式で描かれたものが幾つもある。これらの作品では、主人公の語りが表面的には客観的なものに見えるのだが、実はとても主観的なものになっている。

ポオの作品では、感情や思考が主観的であるのは仕方ないとしても、その場に生じた事実を受け取り記憶する感覚にも主観的なものが隠されており、その感覚を通して事実の描写が行われるのである。事実が淡々と描写されているような場面でも、実は主人公の主観的な感覚が密かに隠れていて客観的な描写を邪魔しているのだが、読者はそうとは知らないうちに主人公の心理を通して見た世界に引き込まれているのである。主人公の主観、つまりは作者の綿密に計算された意図に誘導されて、読者は勘違いをさせられ、道を間違えたまま結末へと進んでしまう。結末の意外性に驚いては、物語の初めに戻ってどこから道が逸れたのかを確かめるのである。しかし、そもそも主人公の主観的な目を通して物語の世界を見ているのであるから、一体どこが事実の描写であり、どこからが主人公の心理的な世界であるのか、それは事実がわからない読者の立場では見極めるのは難しい。これらの作品群の特徴はこの点にあり、意外性に驚かされつつも、作者の緻密な計算の見事さに感じ入るのである。

これらの作品群は、文学作品の制作方法として際立った性質を持っているものであることも確かだろうし、さらに、ポオの人間心理に対する奥深い探求心を強く示しているように感じられる。

ウィリアム・ウィルソンもそのような作品のひとつである。主人公ウィリアム・ウィルソンは、イギリスの上流階級に属する品行の悪い男である。金や女性にだらしない性格で、策略で人を欺いては自らの欲望を満足させる人生を送っている。その彼の前には、少年時代の寄宿舎暮らしの頃から邪魔になる人間がいた。何事につけ彼に逆らうように争うのだが、特に彼が悪いことをしようとするといつの間にか目の前に現れ悪事の邪魔をするのである。そのライバルもウィリアム・ウィルソンという同姓同名で、しかも生年月日まで同じらしいのであった。寄宿舎の同級生や先輩たちは、二人が良く似ているので、親戚か兄弟のように感じていた。ライバルの邪魔は、学校を卒業した後も執拗に続いた。主人公はライバルを恐れつつも憎み、とうとう最後には剣による決闘でライバルを打ち倒してしまう。ヨーロッパにある宮殿のような建物の一室で、瀕死の状態で倒れているライバルに近寄ると、ライバルが主人公に最期の言葉を語った。彼は、主人公自身の良心であったのだ。

結末まで来て、少し予想はしていたものの、結末の意外性に驚き、物語の初めに戻ってどこから道が逸れたのかを確かめるのだが、明確にはわからない。主人公以外にも先輩たちが二人の存在を語っているのだから、ライバルは存在しているように感じられる。しかし、先輩たちの発言は、主人公による間接的な話になっている。第3者の発言さえも主人公の主観を通して語られていることに改めて気がつく。それにしても良心が普通の体を持った存在として描写されているというのはどういうことだろうか、と考えれば考えるほどわからなくなる。

主観を通して事実が語られるとき、このようにも歪曲した姿になってしまうのであろうか。これほど極端ではないにしても、語られる事実は人間の数だけ存在してしまうことになる。それは知っていたはずであるが、このように事実の中に一人の人間が作り出されてしまう位に大きな歪があるとすると、改めて事の重大性を認識しつつも実に不思議な気持ちになる。

「黒猫・モルグ街の殺人事件」 岩波文庫 ポオ著 中野好夫訳



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