中島敦 「山月記」 臆病な自尊心と尊大な羞恥心

李徴(りちょう)は、博学にして才穎(さいえい)、若くして官吏となるほどであったが、下級官吏として俗悪な上官に仕えることを潔しとせず、己の詩才を恃(たの)みに詩家として自らの名前を後代に残すべく故郷へと退いた。しかし、文名は容易には揚がらず、生活は困窮していった。己の詩才に諦めをつけ、妻子の生活を支えるため、やむなく地方官吏の職を得たのであるが、才能が無い者と見下していた者たちの命令を受ける身となってしまった。詩家としての挫折に加え、鈍物と見做した者に下命を受けることは、李徴の自尊心を激しく傷つけた。公用の旅の途中、李徴はとうとう発狂し消えてしまった。

李徴の姿は人喰虎になり、その李徴に、官吏である数少ない旧友が山中で出会うのである。李徴は、失踪してから虎になるまでのいきさつを語り、何故自分がこのような運命に陥ったのか解らないという。

己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えて了うだろう。

人間の心も失いつつあった。このような浅ましい姿になっても、心残りは、自分の詩作が世に残らないことである、という李徴の声に応えて、旧友は部下に命じて李徴の詠う詩を書き留めさせる。

成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。

李徴の才能は一流ではあったが何かが足りないことが友には直ぐに知れた。それは、何であったのか、実は李徴自身にはわかっていた。

己は詩によって名を残そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔(いさぎよ)しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。己の珠に非(あら)ざるを惧(おそ)れるが故に、敢(あえ)て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として、瓦に伍することも出来なかった。

漢文調の美しい語りは、主人公李徴の才が一流のものであることを醸し出してくれ、著者の非凡なる才をも伝えてくれる。読者がこの美しい文中に自らを沈めるとき、李徴と著者自身とが重ね合って見えてこないだろうか。物語る著者の心、それは自分の才を信じつつ、未だ自らに課した目標を達成するに至らないと感じる心、それが李徴の運命に託されて吐露されているかに感じられる。

さらに深く読者が文中に入り込むことができたとき、実は読者自身の心が李徴の物語には描かれているのだと感じられないだろうか。(誰もが一流の才能を有しているとは決して言うつもりはないが、)何か生まれながらに与えられた大なり小なりの才能を十二分に活かしきっていない自分自身に歯痒い感情を抱く瞬間はないだろうか。空費された己の人生への悔恨。李徴と著者と読者の心が重なり合うとき、そこには人生の大切な真実が現れてくるような気がするのである。


「李陵・山月記」 新潮文庫 中島敦著




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