ポール・ケネディ 「大国の興亡」 2 スペイン・ハプスブルグ家 拡大策の失敗

オーストリアに起源を持つハプスブルグ家は、中世に神聖ローマ帝国皇帝の称号を世襲するようになっていた。1500年から1世紀半の間、ハプスブルグ家の支配する国や領域がヨーロッパ全土に広がり、一時はハプスブルグ家がヨーロッパ全土を支配しそうな勢いを見せた。全ヨーロッパに広がった争いは、他諸国の同盟により、最後にはハプスブルグ家の拡張政策は挫折に終わる。

1500年以降の戦いは、1500年以前の戦いとは激しさの点で大きく異なっていた。1500年以前の戦いは、地域紛争、例えばイタリアの都市国家同士の争いやイギリスとフランスの王家同士の争いなど、であったが、1500年以降の戦いはヨーロッパ全土を巻き込んだ覇権争いになったのである。

戦いが大規模になったことについては、二つの大きな理由が挙げられている。第一の理由は、宗教改革である。それまでの王家同士の争いとは違う理由、宗教的な教義に基づく理由によって、国の範囲を超えて戦いに参加する人々が現れたのである。第二の理由は、王家の連合が生まれたことである。

ハプスブルグ家の持っていた戦略的な長所を見ていくと次のようになる。領地に住む人々は、ヨーロッパの約4分の1を占めていた。財源となるような豊かな地域を支配していた。、スペインのカスティリァ、重要な貿易地域であるオランダとイタリア各地、アメリカから産出される銀と金、それに商業と金融の中心地南ドイツ、イタリア、アントワープなどである。これらに加えて、戦略的に一番重要であったのは、スペインには訓練の行き届いた歩兵部隊であった。

こうした長所があったにも関わらず、ハプスブルグ家はヨーロッパの覇権を確立することはできなかった。その要因は以下のように分析されている。

第一の要因は、「兵器革命」が起こり、戦闘の規模と費用と組織が大幅に増大したことである。1500年までの戦いでは主力だった騎兵は、歩兵へと主役の座を譲った。これに伴って大きな軍隊の設立と維持が必要になった。これは海軍でも同様で、陸軍と海軍の維持には、膨大な費用がかかった。各地で紛争を抱えているハプスブルグ家は、陸軍と海軍の維持費用が2倍、4倍と膨れ上がり、常に破産の瀬戸際に立たされていた。

第二の要因は、ハプスブルグ家には戦う敵が多すぎ、守る戦線も広すぎた。如何にスペインの歩兵部隊が勇敢に戦おうとも、戦線が広がりすぎては戦力が手薄になった。スペイン、北アフリカ、シチリア、イタリア、アメリカ、オランダと戦線は広がっていた。この広大な領地を治めていくには、並々ならぬ政治的、外交的力量を必要とした。

ハプスブルグ家の歴史は、大国が拡大しすぎて戦略的に破綻した典型的な例の一つであるといえる。広大な領土を維持する代償として、ハプスブルグ家は多くの敵を背負い込んだのである。(p.88)

同じ時期にフランスやイギリスなど他の国々は、平和な期間を過ごすことができた。このため、国力の回復を図ることが出来たのだが、ハプスブルグ家、特にスペインは、一つの敵から別の敵へと次々に戦いを続けなければならなかった。こうして国力を回復する間もなく戦い続け、国力は次第に衰えていったのである。

第三の要因は、政府が利用しうる資源を有効に活用できず、経済的な失敗が国力の衰退に輪をかけることになったのである。領地の広さやその領地の豊かさから言えば大国であったかもしれないが、ハプスブルグ家の支配する領地は、ヨーロッパ全体に分散していて、領民も言語も経済的なレベルも全てばらばらであり、統一的な中央集権国家とは言いがたかった。一番大きかったのは、スペインでの制度改革が進まなかったことであった。スペインで自治が認められ、それぞれの領地で法制や税制があって、スペイン政府に入る収入は王家の直轄地からのものだけであった。結局膨大な戦費を負担していたのは、カスティリァの農民と商人であり、国は更に疲弊したのである。

こうしたハプスブルグ家の失敗は、絶対的なものではなく他の諸国との相対的な関係によるものだと著者は指摘している。他国でも同じような課題は抱えていたのだが、相対的にハプスブルグ家よりも他国の方がうまく切り抜けられたということである。しかも、その差は僅差であったのである。

オーストリアのハプスブルグ家は、スペインの陥った争いから手を引くことができ、歴史的に相続していた領地に専念した。こうして力を蓄えることができたため、後の時代に再度大国として登場するのである。


「大国の興亡」 草思社 ボール・ケネディ著 鈴木主税訳




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