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ニーチェ 「ツァラトゥストラはこう言った」 

ツァラトゥストラにおいてニーチェは、「超人」と「永遠回帰」という彼の大きなテーマが述べられている。 カントが、神の存在は理性の対象の外にあると言った時に、ニーチェにとって「神は死んだ」。 一切を見た神、人間そのものをも見た神。このような神は死なねばならなかった!人間は、そのような目撃者が生きていることに耐えることができない。 至高の存在が無くて、人はこの世を肯定的に生きていくことは難しい。人生の苦悩の意味は神が与えてくれていたからだ。神がいなくなった社会の市民が平等の海の中で溺れているのを見ればそれが確認できる。市民は「おしまいの人間」へと成り下がった。心の拠り所となるべき核心が無い世界。苦悩に満ちている人生から目を逸らし、束の間の快楽に耽るしかない、そんな惨めな生き様である。 神が占めていた空間を補うためには、超人がなくてはならない存在であったのではないか。だが、その超人が何者であるのか。それは定かでない。 この世を超越した神が天に存在したのと違い、超人は大地の中にいる。 この世は悲痛で陰鬱なことに溢れており、人生に目的などなくただ空しいものであるという厭世的な考えに対して、ニーチェは「永遠回帰」でもって肯定的な答えを与えようとしているのではないか。 人生が一つ違わず完全に幾度も繰り返されるとしたら。 あなたがたは一切をもう一度くりかえすことを欲するか。 苦悩に満ちた人生に、至福のときが一瞬といえども無ければ、この問いに肯定的に答えることはできない。ニーチェは、神がいなくなった人生をも全く肯定しているのである。なんという偉大な精神であろうか。 「ツァラトゥストラはこう言った」 岩波文庫 ニーチェ著 氷上英広訳

大島末男 「人間とは何か」

「人間とは何か」という問いは、人生の困難に直面して悩むときに、誰もが自らへ問いかけるものではないだろうか。しかし、その問いへの答えは得られず、問いは永遠に続くものであろう。 本書では、哲学者やキリスト教神学者のいくつもの思想を辿ることで、この問いを改めて考えていくものである。その問いは、自己超越として扱われる。 ギリシャ哲学の黎明期には、万物の根源は何であろうかということがいわゆる自然哲学者たちによって問われていた。しかし、ソクラテスによって人間の内面へと根源的な問いが向けられることになる。ソクラテスは、問いかけを通じて、議論相手に「無知の知」を気づかせるが、これは古い自我に死んで新しい自我に生まれ変わるのに対応すると言う。実は、この古い自我に死んで新しい自我に生まれ変わるということ、つまり「自己超越」を辿ることこそ、本書の主眼であり、「人間とは何か」という問いへの答えへ導いてくれるであろうというのである。 自己超越を如何に扱うのか。エリアーデは「聖と俗」の中で、古代世界では、原初の混沌から世界の秩序を形成した神の行為を正確に繰り返すとき、人間は世俗的な自己を超越し宗教的な存在になれるのだと説いている。古代世界の人間にとっては、古典つまり神話こそは生きる規範であった。神話で語られる神は行為の模範を示してくれ、人間はそれに習うことで自己超越的に生きることが出来たのである。聖と俗の区別。俗である古い自我に死んで、聖である新しい自我に生まれ変わること。 近代のカントによれば、動物と違って、人間は精神と実践理性を持ち、人間の良心は神や掟などの外部からの強制によって律せられるのではなく、自律的で無条件の遂行を求める。欲望や打算的なものが命ずることを排し、良心という内部的な道徳律に基づいて、純粋に行為することができるのである。これがカントにとっての自己超越であった。人間の自然な行為から離れ、自らの良心に基づいて生きることである。 キルケゴールは、旧約聖書に出てくるアブラハムがイサクを神に献げる物語から、アブラハムの内面を分析している。神はアブラハムに対して、息子イサクを犠牲として献げよと命じ、アブラハムはそれに応じる。息子を犠牲として献げることは倫理的、道徳的には許されることではないが、宗教的には了承できるものである。キルケゴールにとっ...

大島末男 人と思想「カール・バルト」

20世紀最大の神学者カール・バルトの生涯とその思想について丁寧に解説した良書である。バルト神学の神髄について解説された部分は、神学の基礎が無い自分に、果たしてどこまで何を理解できたのか怪しいが、そういう初心の者でもバルト神学の魅力に触れることができた。第2次世界大戦の時期、ナチスの脅威が迫ったヨーロッパと言う困難な状況においても、自らの神学に基づいた信念を貫いてナチスに抵抗した活動を実践し、神学者というよりも思想家というのがふさわしいが、理論と実践を実現したその姿には感動を覚える。現代の困難な時代を考えるとき、バルトの思想は我々に勇気と希望を与えてくれるのではないだろうか。 古典的な神学では、プラトン哲学のイデアによって神を理解しようとしてきた。その様な時代には神の存在を疑うことは無かったのである。ところが近世にかけて、デカルトに代表されるように、人間が自己の理性を中心に据えて思考し始めると、確実に存在するものは自己の理性であり、神は実体を伴わない存在へと転落してしまう。神は名称だけのもので、空虚な存在となってしまう。古典的な時代から見ると神と人間の関係が逆転している。それが現代社会に生きる人々の精神世界ではなかろうか。 バルトは、そのような状況で神が確固として存在する神学を築いたのである。それはキリストの出来事を中心に据えて、その視座から神学を確立していく。人間は理性によっては神を知ることはできない。人間は、神の啓示によってのみ、神を知ることができるのである。神の啓示、つまり聖書におけるキリストの出来事である。信仰によってキリストの出来事に触れるとき、隠れていた神と出会う。それは神の呼びかけと、人間の応答である。神からの呼びかけに応答した人間は、自らの殻から抜け出し、神と隣人への愛に生きることができるようになる。 イエス・キリストに出会うこと。そして、イエス・キリストの呼びかけに応えて生きること。 人と思想「カール・バルト」 清水書院 大島末男著  

Paul Krugman, "The Conscience of A Liberal" リベラリズムとは

New York Timesコラムニストで、ノーベル経済学賞受賞の経済学者ポール・クルーグマンの著書。アメリカのリベラリズムが目指しているものは何かを明晰な論理とわかりやすい文章で説明している。アメリカの二大政党である保守党と民主党の政策の違い、それによる実際の政治の結果の現れ、社会全体としてどういう道を歩むべきかの問い、などが明快に主張されている。 本著作を読む上で、そもそもリベラリズムとは何か、そしてそれと対を成す保守主義とは何か、ということが鍵となる。リベラリズムとは、基本的な考え方は政治的な自由主義であるが、民主党が目指しているリベラリズムは、完全な政治的な自由主義とは違い、大恐慌時代にルーズベルト大統領がNew Deal政策によってもたらしたような、社会の不平等(格差)を解消する政治を目指している。それは、自由主義というよりは、社会の不平等を政治の介入によってある程度解消することで、大多数の人が社会発展の利益を享受できるようにしようとするものである。また、そういう不平等が解消されることで社会も安定したものとなり、社会全体も利益を享受できるとするものでもある。 不平等を解消するといっても、働かない者を優遇するという意味ではない。努力したが不幸にして失敗した者、不幸にして健康に恵まれない体を受け継いだ者に手を差し伸べ、人間的な最低限の生活を保障できるようにするものである。また、不幸にしてそういう親を持った子供にも、勉学の機会を与え、能力があり意欲があるものであれば自らの努力で成功する道を切り開けるようにするものである。 このリベラリズムの考え方と対立する現在の保守党の保守主義は、逆に政治の介入を極力減らし、社会の動きを自由に任せようとするものである。資本主義を目指す態度として、一見論理的に正しい考え方のように映るが、自由放任の結果生じるのは、強者はますます強くなり利益を享受するが弱者はますます弱くなり失うばかりの社会である。それは、今のアメリカがブッシュ保守党政権の下でそういう状況に陥りつつあることが示している。アメリカは現在も経済的な成長を続けているが、アメリカの富は、ごく一部の経済エリートがアメリカ全体の富を全て奪い去っていて、アメリカが成長しているにもかかわらず、残りの市民は次第に苦しい経済状況に追い込まれている。アメリカの強み...

Thomas L. Friedman, "The world is flat",  世界はフラット化している

New York Times紙の国際関係コラムニストであるトーマス・フリードマンの現代論とでもいうような著作。 20世紀後半に始まり21世紀に入っても止むことの無い、IT技術の進展や規制緩和拡大など地球規模で進む大きな変革の流れが、我々が住むこの世界全体にどのような変化を与え続け、そしてどのような世界全体をどこへと向かわせているのであろうか、その問いへの答えているのがこの著作である。 世界はフラット化していると著者は言う。20世紀までの世界は、いくつもの障壁によって各国ごとに分断されていた。障壁とは、各国政府により国内市場を守るために張り巡らされた様々な障壁や、人の移動を阻む労働市場などが挙げられる。その障壁が、IT技術の進展や規制緩和の深化によって、取り除かれたり無意味なものになったりしている。そうした障壁が取り除かれた状況をフラット化した世界と著者は呼んでいる。 フラット化した世界ではどのようなことが起きているのか。これまでは労働者と市場は近い場所になくてはならなかった、アメリカ国内でサービスを行うにはアメリカに住んでいる必要があったのである。しかし、それが崩れてきている。例えば、ある遠隔家庭教師サービスを見てみると、家庭教師役のインド人の先生がインドから電話やインターネットを使って、アメリカ国内の小中学生の生徒に授業を行うのである。何がそれを可能にしているだろうか、著者は次のような10の出来事や技術を挙げている。 1.1989年11月9日  これはベルリンの壁が崩壊した日である。冷戦の終結、共産主義の没落を象徴した出来事であったが、ここからフラット化も始まったのだと著者は分析している。共産主義の意味、それは中央政府によって完全に計画され制御された市場の存在である。そして、計画経済は人間世界では機能しなかったことが認識され、世界は市場経済へと大きく舵を切っていく。その中心はインドであり、中国であり、ロシアであった。彼らが市場経済へと移行していなかったら、インドのソフトウェア業界は立ち上がらなかったし、中国が世界の工場にまで上りつめることも出来なかったであろう。 2.1995年8月9日  初期のWeb Browserとして世界を席巻したNetscape社が株式公開した日である。Webの世界が本格的に始まり、世界がイ...

ヴォルテール 「カンディード」 自分の庭を耕すこと

この作品は、ヴォルテール(ボルテール)の哲学コンテである。哲学的な主題を素描したものであり、物語は御伽噺のように破天荒な部分があるが、直接的な表現によってヴォルテールの人生観が色濃く現されているのだと思う。 主人公カンディードは純真な青年であるが、運命に翻弄され、故郷を追われ、世界各地を転々としながらも、人生とは何かという問いを追い求めていく。カンディードが辿る旅路は、故郷ウェストファリアを出発点として、プロイセン、ポルトガル、スペイン、アルゼンチン、パラグアイ、エルドラド、スリナム、それからヨーロッパへ再び戻りフランス、イギリス、ヴェニス、そして終着点コンスタンチノープルへと続く。 この世ではすべては最善の状態にある(p.277) 哲学の恩師パングロス博士から教えられたライプニッツの最善説を純真なカンディードは純粋に信じているのだが、現実は悲惨さや苦難ばかりが続き、辛く厳しい事件で埋め尽くされている。故郷を追われ、恩師パングロスや愛するキュネゴンドとは死に別れてしまう。いったい最善説が教えてくれる最善の状態とは何なのだろうか。このような苦しく厳しい現実であっても最善と呼べるのであろうか。時には、好いことが巡りくる。死に別れたと思った恩師や愛人に再会するのである。しかし、それは束の間で、すぐに生き別れてしまう。 主人公やその周囲にいる人物ばかりでなく、物語に登場する王侯貴族、聖職者、軍人、市民などの人物たちも、自分自身のエゴからくる悪意に操られているか、運命によって翻弄されているかで、幸せな者などはいない。宮廷の腐敗、宗教裁判、戦争、海賊、裏切り、詐欺、梅毒など数えたらきりが無いヨーロッパ社会の暗い面の現実を訴えている。 しかし、一つだけ例外の場所がある。南米奥地にあるエルドラドである。エルドラドは伝説の理想境であるが、カンディードはここに偶然から迷い込んでしまう。そこでは、金銀宝石が地に満ち溢れるが、人々は見向きもしない。食べ物は豊富に行き渡り、人々の心は豊かで慈悲深い。このように夢のような理想境であるにも関わらず、カンディードはエルドラドに留まらないで、厳しい現実が待つヨーロッパへと戻っていくのである。夢や幻ではなく現実を直視して、そこで力強く生きよというヴォルテールのメッセージが感じられる。実際、カンデ...

ヴォルテール 「ザディーグ」 人間の一生とは

18世紀フランス啓蒙主義の巨人ヴォルテール(ボルテール)が著した哲学コンテである。哲学コンテとは、哲学的な題材を素描した物語で、ヴォルテールはこの物語の中で伝統、慣習、宗教などの古い考え方に対して批判的なまなざしを投げかけている。「ザディーグ」は中東のバビロンを舞台としており、主人公を中心に王や王妃、宮廷の人々の波乱に富んだ筋立ては、表面的にはまるで「千一夜物語」のような印象を与え、おとぎ話の世界を髣髴とさせる。 いったい、人間の一生とはなんだろう。(p.132) しかし、その実はヴォルテール時代のフランス社会、特にパリの宮廷や社交界を批判するのに、バビロンを借りているだけであり、また、「千一夜物語」と違って主題は哲学的に深く、バビロンの青年ザディーグが翻弄される数奇な運命を描きながら、生きるとは何か、運命とは何か、という深い問いかけを投げかけているのである。人間の一生のうちにある幸福とは不幸とは何なのか、何故正しい者が不幸になり、悪を働くものが幸福を得るのか、本当に神はいるのか。 すべては必然的につながっていて、最善のために配剤されています。 ザディーグ執筆時期におけるヴォルテールの人生観は、ライプニッツが唱えたという最善説を基にしており、人生の意味についての問いかけへの答えも、最善説によるものとなっている。人生において我々の眼前に生じる事象は全て最善のものであり、自分にとって有益なことであるが、それは神によって配慮されているのである。ある時点で不幸に陥っていても、それは最善のことである、何故ならば将来にもっと大きな幸福を得られるための準備となっているのだから、そんな前向きで楽天的にも見える考え方である。 「千一夜物語」のように、破天荒な筋が展開する素描を追いかけなくとも、毎日を力強く生きていくために必要な力を与えてくれるのは、最善説のような楽天的な考え方であろう。しかし、本当にそうだろうか。人生の事象を注意深く観察し、十分に深く思索を行う者に、この最善説は正しいと受け入れられるか、あるいは少なくとも共感を得る位の説得力を持ちうるのか、というとそれは疑問である。実は、「ザディーグ」の後に執筆された「カンディード」の中で、さらに深まったヴォルテールの人生観による答えが準備されている。 「カンディー...