ゲーデル 「不完全性定理」 不完全でも確固として豊かな数学

不完全性定理が数学的に説明された部分は難しくてわからないのだけれども、その歴史的意味や数学界や社会へ大きな影響を及ぼした背景などが丁寧に解説してある。

不完全性定理が訳者(解説者)によって一般人にもわかりやすく書かれた文章は以下のようである。


数学は矛盾しているか不完全であるかどちらかである。 
数学の正しさを「確実な方法」で保証することは不可能であり、それが正しいと信じるしかない。

ここにおいて注意しなくてはならないのは、一般にもわかりやすくするために、上記には解釈が加わっていることである。それは、もとのゲーデルの定理では「数学の形式系」について言及されているが、上記説明では「数学」について言及されている。「数学の形式系」と「数学」とが同じであるか別物であるかは、専門家でも意見の分かれるところなのである。


数学の形式系とは、命題や証明に対して機械的な定義が与えられ、この機械的な定義を「意味抜きに」数学的に定義できる、という立場の考え方である。普通命題は人間が意味を考えながら証明を行うが、形式系によって定義された形式的命題は、機械的数学的な操作で証明ができるという。我々が林檎の個数を数字に置き換えて、林檎の意味など考えずに、足し算を行うのと同じように、命題の証明を意味を考えずに数学的な操作で証明を実行してしまえるというのである。

果たして、数学と形式系を同一視できるのか、それは議論のあるところだと思うが、大数学者ヒルベルトが進めた「数学基礎論」はこの考え方によったものであった。つまり、ヒルベルトによれば、数学は形式系で表現できるというのである。

ヒルベルトの時代は、カントールが集合論を確立しようとしていた頃であった。カントールは無限集合を導入したが、一般人でさえ無限に対してある程度の認識を持っている現代的な感覚とは違い、無限という存在は数学者達の間で大きな論議を呼ぶものであった。しかし、有限の手法では膨大で難解な証明や手順を必要とする解が、無限という概念を使うと、非常に簡単に証明できてしまうのである。無限の存在基盤の危うさとは裏腹に、無限の威力は凄まじかった。

無限という数学的な実体は本当に存在するのか。ヒルベルトによる回答は、「存在=無矛盾性」、つまり、数学的実体が存在するとは無矛盾である、ということであった。


存在とは、その概念を定義している諸条件が相互に矛盾しないことを意味する。

ヒルベルトの概念の基礎は、概念が矛盾なく証明できることであり、ゲーデルによって矛盾する場合があるという結論を出されてみると、ヒルベルトの概念が根底から崩れ去ってしまうことを意味するのであろうか。

こういう背景を踏まえてみると、ゲーデルの不完全性原理によって否定的な結論を与えられたヒルベルトの「数学基礎論」は、近代ヨーロッパの合理性を極めたような理論であったから、合理的精神が否定されたという解釈のもとに、哲学、心理学、思想、情報科学など広範囲かつ大きな影響が広がった、というのもうなずけることである。

不完全性原理は事実である。矛盾か不完全か、数学はいずれかなのである。しかし、それにもかかわらず、数学は現在に至るまで確固として存在し、豊かな内容を有している。数学は不完全であるのは、豊かな数学全体から見ると、限定された周辺部分においてのみ生じているに過ぎないのであろうか。そういう数学の持つ大きな構造に改めて驚かされる。


「不完全性定理」 岩波文庫 ゲーデル著 林晋、八杉満利子訳および解説 




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