木下順二 「古典を読む『平家物語』」 清盛

「歴史に名を残したほどの人びとは、とにかくその全力を尽くして生きてきたのだ」。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、と詠われたように、「人はどうせ死んでいくはかないものである違いないが」、全力を尽くして生きた人々の姿こそ、歴史を作り上げているのではないか。或る人は無理のある、わがままな生き方をしたかもしれないし、或る人は見事で美しい生き方であったかもしれない。いずれにしても彼らは全力を尽くして生きた。そしてその人生に真実が見えるのではないか、そういう風に著者は平家物語を読み解いてくれる。

平清盛こそは、その人である。
おごれる心もたけき事も、皆とりどりにありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、伝え承るこそ心も詞も及ばれぬ。
1156年保元の乱で、清盛は、後白河天皇に味方して勝ち、その栄華の基礎となる。後白河天皇は、後白河法皇となり30余年にわたる院政をしく。清盛と後白河法皇は、院政の初期にこそ頼り頼られる信頼関係にあったが、両雄並び立たず、後には後白河法皇その人が反平家の中心となった。これも全力を尽くして、自分に正直に生きた人々の真実の姿であったのであろう。

後白河法皇派の俊覚等が清盛への陰謀(鹿谷の陰謀)を企てたことで捕らえられる事件が起きた。陰謀は未然に防がれたが、清盛の後白河法皇への烈しい怒りは静まらず、後白河法皇を捕らえて幽閉しようとする。しかし、清盛には長男の重盛という忠臣がいて、諫言してくれた。
悲哉、君の御ために奉公の忠をいたさんとすれば、迷慮八万の頂より猶たかき父の恩、忽ちにわすれんとす。痛哉、不孝の罪をのがれんとおもへば、君の御ために既に不忠の逆臣となりぬべし。進退惟きはまれり、
だから、このときは、思い止まることができた。

その翌々年、重盛は死んだ。清盛にとって一番頼りになる者であった。その支えがなくなり、清盛はとうとう後白河法皇を幽閉してしまう。こうして、平家の独裁政権が完成した。

清盛の死は、それから1年余り後のことである。その1年余りは、平家の絶頂期であり、没落の始まりでもある。その期間に、福原遷都と反平家勢力蜂起があった。清盛は、病床でも反平家蜂起のことで頭はいっぱいで、最後の言葉もその通りであった。

今生の望一事ものこる処なし。ただしおもひをく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頚を見ざりつるこそやすからね。われいかにもなりなん後は、堂塔をもたて、孝養をもすべからず。やがて打手をつかはし、頼朝が首をはねて、わがはかのまへにかくべし。それを孝養にてあらんずる。

この清盛の遺言を著者が以下のように読み解いてくれる。
死ぬまで、平家武士団の棟梁としての行動力をここに至っても失うことなく、自らが行ってきた数々の暴虐に対する業罰に耐えながら、冷静に一族の過去と現在を考え未来を見通しつつ、おれは死んでも死なぬぞという気迫を籠めて発した宣言のごとき遺言であると思われる。そうして終に、豪快なまでに暴逆に生きたその生とまさに見合うような、壮絶とも形容すべき死を清盛は死ぬのである。(p.111)
清盛の死が何故それまでに劇的なのかということを、著者は次のように解説してくれる。普通の歴史記述は、外からの傍観者として歴史を淡々と記述したものになる。正確に事実を記述しているかもしれないが、それは生命を失った事実である。しかし平家物語は違う。一つの時代が終焉を迎えようとしていたとき、古いものが閉じるようとするその先に新しいものが開け見えてくる、そういう時代そのものが、あるいは思想のようなものが、生命を保ったまま閉じ込められているのだという。


「古典を読む『平家物語』」 岩波現代文庫 木下順二著



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