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Norton Juster "The Phantom Tollbooth"(ノートン・ジャスター ファントム・トールブース) 言葉と知恵の秘密

全てのことに興味を持てず、何をするのも億劫で、退屈な日々を過ごしていた普通の少年Miloは、彼の部屋に現れた料金所(Tollbooth)から不思議な世界へと続く道を旅していく。Miloが旅へと出かけたのは、他にすることがなかったからであった。 Miloの前に現れるのは、言葉と知恵が人や生き物の形をとって生き生きと活動する世界であった。Miloは時計が体にくっついている Watchdog(番犬、時計の犬) のTockとともに旅をする。 言葉が溢れる町 Dictionopolis(辞書の町) に着いたMilo達は、警官 Shrift(懺悔という意味) によって地下牢に送られる。地下牢には 魔女(Witch) がいると教えられていたが、そこにいた老女は自らのことをOfficial Whichと名乗る。Official Whichとは、言葉の国で、どの言葉を使うべきでどの言葉を使うべきでないかを決める役職であった。彼女の本当の名前は Macabre(死、気味が悪いという意味) といった。Macabreは彼女が地下牢に幽閉されている理由と言葉の国の治世がうまくいっていない原因を教えてくれた。 その世界にはDictionopolisと Digitopolis(数字の町) があり、それぞれを統べる王 Azaz(AからZまで) と王 Mathemagician(数学魔術師) がいる。実はこの二人の王は兄弟で、王には Rhyme(韻という意味 )王女と Reason(理性という意味) 王女という姉妹がいて、彼女達が王国に起きた全ての問題を解決してくれていた。しかし、AzazとMathemagicianは、次第に互いに競い合い反目しあうようになり、仲裁に入るRhymeとReasonが公平でどちらの王にも偏らないことに腹を立て、RhymeとReasonを Castle in the Air(空の城) という牢に幽閉してしまう。二人の王女がいなくなってから、国の治世はおかしくなってしまったのだった。 二人の王女を救い出せば、国は元のように素晴らしいところに戻り、Macabreも地下牢から出られると聞いて、MiloはTockと Humbug(ペテン師という意味) の3人で王女達を助け出すために出かけていく。 Castle in the Airへの旅は新しい冒険や発見で一杯...

ソルジェニーツィン 「イワン・デニーソヴィチの一日」 自由はいずこに

シベリアにある強制収容所(ラーゲリ)に入れられた主人公シューホフ。極寒のシベリアというのにまともな暖房設備もなく、貧弱な栄養状態で、 過酷な労働を 強いられるが、その逆境を生き抜いている。ある一日の起床から就寝までが描かれているだけだが、その描写にはラーゲリの日常が凝縮されている。また、ラーゲリの外にあるソヴィエト社会も囚人の会話や回想によって垣間見られる。 淡々と描かれていても、 やはり苛酷であることに変わりないラーゲリでの生活。主人公が真剣に 生きる姿、力強さ、逞しさには圧倒されるし、感動さえも覚える。 シューホフは何も語らないが、自らを押しつぶそうとする権力に対して反抗する精神が息づいているように感じられる。シューホフ は、自分の庇護者に対しては誠実さをもって尽くすが、 権力を持つ者には正面切って抵抗することはしないものの、必要以上の奉仕もしない。それは 、権力に敗北しているわけではなく、隙があれば、 そして益するところがあれば、 権力に対しても歯向かうのである。 それ以外の者は邪魔者でしかない。 モスクワから来たチェーザリや元海軍中佐といった知識人がラーゲリの囚人として登場するが、この過酷な環境で現実を直視できず、 思索へと逃げてしまっているように見える。 しかし、シューホフは彼ら知識人を見捨ててはいない。 暖かい心情を含んだ眼差しで見ている。 シューホフの現実的な姿、 ラーゲリを生き抜くためには何をすべきか、 それだけを徹底させた生き方である。 読者に苛酷な状況であることを忘れさせてしまうのは、主人公や周囲の人々を淡々と描く 著者の卓越した文章力によるのだと思う。また、この逆境を生き抜いた著者の揺るぎない精神力の現われとも思う。悲惨な状況を悲惨には描かず、淡々と描写することで、読者が表面的な悲惨さに目を奪われないようにし、問題の本質を見失わないようにしたのかもしれない。 何故農民が主人公でなくてはならなかったのか、言いかえれば 主人公が知識人ではこの物語は成立しえないのだろうか。その頃のソヴィエトにはもう知識人はいなかった。スターリンの時代に中間層や富農や知識人は粛清されてしまい、農民しか残っていなかったのである。また、わずかに残った知識人に語らせると、かえってことの本質を見失わせるのかもしれない。農民に素朴に現実を語らせる...

L. Scott Fitzgerald "The Great Gatsby"(フィッツジェラルド グレート・ギャツビー)

ギャツビー(Jay Gatsby)は何を追い求めて生きたのだろうか。 ギャツビーは、ニューヨークに近いロングアイランドにある壮大な邸宅へ毎夜多数の客を招き盛大なパーティを催してはいるが、パーティの喧騒から離れて佇む彼自身はそのパーティを楽しんでいるわけではなかった。ギャツビーは青春時代に愛したデイジー(Daisy)という女性、今はトム(Tom Buchanan)と結婚し湾の対岸に住んでいるのだが、彼女に再会することを待っていた。     'Her voice is full of money,' he said suddenly. (p.115) デイジーの声は金で一杯だ、という有名な言葉、彼女は裕福な家庭で不自由なく育った。デイジーは、ギャツビーにとって、人生の目的を象徴するような存在だと思う。彼女は、裕福な家庭に育ち、美人で華やかであり、そして中西部に生まれた若きギャツビーよりも東(ルイビル)に住んでいた。アメリカでの東は、エスタブリッシュメントを意味している。ギャツビーにとっての人生の目的は、グレートになること、彼にとってそれは物質的あるいは金銭的な成功であり社会でのステータスの獲得であったと思う。 そして、彼の人生は挫折で終わる。グレートとは人生にとってどういう意味があったのか。デイジーと再会したとき、実は、物質的、金銭的な成功や社会のステータスなど虚しいものであることに彼は気付いていたのではないかと思う。そしてニックも、また薄々感じていたのではないか。 I see now that this has been a story of the West, after all -- Tom and Gatsby, Daisy and Jordan and I, were all Westerners, and perhaps we possessed some deficiency in common which made us subtly unadaptable to Eastern life. (p.167) この物語はニック(Nick Caraway)という中立的な視点を持つ人物によって語られている。ニックが、見て、聞いて、体験した出来事の中からニックによって語るべきであると選ばれたものが、ギャツビーに関する...

マイケル・ゲルヴェン ハイデッガー『存在と時間』註解 4 ニーチェの超越

19世紀後半、キルケゴールやニーチェに代表される哲学者達は人間存在への問いつまり実存への問いへと向かった。その流れは20世紀になっても衰えることはなく、ハイデッガーや多くの哲学者たちが実存の意味を探るようになっていった。 何故実存の意味が問われるのか。伝統的価値の崩壊、社会の劇的な変化、伝統的哲学の不毛など、様々な理由が出されているが、こうした社会学的、心理学的理由ではなく、哲学の流れには哲学的考察が必要であろうと著者は述べている。死や意識や罪や自由と言った実存の問題を、過去の偉大な哲学者たち、アリストテレス、トマス・アクイナス、デカルト等が顧みなかったわけではないが、実存の問題がこれらの哲学者たちの哲学の究極的根源を成している訳ではない。ニーチェやハイデッガーは、死や意識や罪や自由と言った人間の極めて弱い側面をとらえることで、彼等の偉大な哲学の全重量を支えようとしたのだという。それは、実存を問うことでしか哲学を支える方法がないからである。 実存が哲学の根源であるという意識は、とてつもない天才的な哲学者イマヌエル・カントにその原型を見出すことができる。彼の著書『純粋理性批判』において、カントは科学と数学が如何にして可能であるかを分析している。カントによれば、人間が科学と数学を成すことができるのは、感覚を通じて直接に理解する能力と、悟性の厳密な規則を用いることができる能力とによるのである。カントはこの偉大な発見にも満足することなく、更に真理を追究して新しい立場に立つ。カントが科学と数学に関する人間精神の働きを発見できたのはどういう位置からだったのだろうか。それは、彼が「ア・プリオリ」と呼ぶ方法によってであった。 「ア・プリオリ」という視点が科学に使えたとすると、それは哲学にも使えないものであろうか。しかし、カントはそこで難問にぶつかる。カントによれば、科学が可能になるのは、科学的な悟性の限界を指摘することによるのであった。限界を知るには、限界を超え出て行かなければならない。科学という安全確実な世界を飛び越えた先で、何が悟性の正しさを保証してくれるのだろうか。 カントの難問に答えようとするならば、哲学者を批判できるのは物自体という視点からであるといえようか。カントによれば、人は物自体をあるがままに知ることはできないが、しかし自分の為さねばならぬことと...

マイケル・ゲルヴェン ハイデッガー『存在と時間』註解 3 ドストエフスキーの大審問官

本著作は、哲学書の註解でありながら、優れた随筆あるいは評論とでも名づけられそうな箇所が随所に見られる。その中の一つ、ハイデッガー哲学の本来性・非本来性を扱うのに、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を引用しながら、わかりやすく説いている箇所がある。ハイデッガーを研究する学者らしいドストエフスキーの読み解き方を教えてくれる。 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には、「大審問官」という有名な章がある。この章は、登場人物の作った話という位置づけで、物語の中の物語という形で綴られているが、キリスト教会内の高僧ですら平安へ盲従しているということを描いて人間の弱さを暴いている。 そこでは自由と安全確実性との間の偉大な闘争のさまが力強く描かれている。ドストエフスキーは、この問題にキリスト教における問題という形をとらせているのではあるが、この素晴らしい章に示された人間存在への洞察は、単なる一つの宗教的見解をはるかに越えたものである。   「大審問官」の主題は次のようなものである。もしもキリストが今日の西欧キリスト教社会に戻ってきたとしたなら、彼は教会自らによって拒否されるであろう。なぜならば公の教会というものは、ほとんど機械的とも言える宗教制度によって安全確実性を与えてくれるものであって、そこでは救いを得るためには何をなし何を望んだら良いのかがきちんと解っているいるのに、ところがキリスト自身は少しもそんな安全確実性は与えてくれず、ただ自由を与えるからである。   教会の枢機卿である大審問官は、再び甦ったキリストを、人々に対する愛情を自分ほどは示していないといって非難する。枢機卿が言うには、自分は人々に欲しがるものを与え、従って彼等をしあわせにしてやる。それなのにキリストは、人々が欲しがっている安全確実性による平安を奪い、その代わりに自由という恐るべき重荷を背負わせるのである。(p.329) 「大審問官」自体が素晴らしいのは勿論であるが、ここで著者が「大審問官」を取り上げているのは、ハイデッガーが『存在と時間』第二篇第二章で語っていることと関係があるためである。それは、ドストエフスキーとハイデッガーの両者が注目する、自由の大切さと、それに伴う自由の性格にある。 第一には、自由は自由である者の肩に恐るべき重荷をのせるものであり、何を...

マイケル・ゲルヴェン ハイデッガー『存在と時間』註解 2 理性という基盤

存在への問いは至上の問いである。存在への問いを、ハイデッガーは「ひと」を探究していくことで成し遂げていく。ここで言う「ひと」とは普通の意味での「ひと」ではなく、自分自身が存在しているということに気づいている「ひと」の一面を指している。ハイデッガーは、人が何であるかを求めているのではなく、人にとって「ある」(存在する)とはどういう意味かを問うている。人はいかに生きるべきかという問いではなく、存在することの意味を問うているのである。 存在の意味が意義をもつのは、自己自身の存在について問う者にとってだけなのである。(p.61) 自己自身の存在について問うとはいかなることであろうか。ハイデッガーは、「ひと」が死に面したとき、良心の声を聴くときの、「ひと」の理性の動きについて探究する。この理性の働きを見ることで、「存在するとはどういうことなのかという構造」を明らかにしようとしている。 理性の働きは論理的、科学的分析の認識には限られない、ということを最初に指摘したのはカントであった。『純粋理性批判』の第一節を読めばいやでも気付かざるを得ないことであるが、理性は、超越論的なはたらきによっておのれ自身を反省することができ、この反省を通じてまさにおのれの自由の基礎をきずくばかりか、おのれ自身に対して持つべき畏敬の念をも生み出すので、これは倫理的判断の原理をもなすことになるのだ、とカントは言っている。(p.098) ここで、著者が指摘しているのは、理性という「ひと」に共通にあるものは、確固たる基盤たりえるということである。私の理性は個人的なものでもあるし、理性の働きという基盤を通じて、全ての人と通じ合えるのである。理性は、自分自身を省みて、「存在することの意味を了解する」ことができるというのである。しかも、それは心理的な意味ではなく、哲学的な意味で分析ができるとも言っている。 普段理性のことをもしていない。こうして改めて、自分へ中心部分へと沈思してみると、理性の不思議さに驚きを禁じえない。自分自身のものであり、ひとに共通の基盤でもあるということ。いざ自分の理性を見つめようとしても、それは簡単にできることではない。何か空虚なものを感じるだけである。しかし、自分が恐れを感じている瞬間、自分が怒りを感じている瞬間であれば、そのさらに奥に潜んでいる自分の自己を見つけ出す...

マイケル・ゲルヴェン ハイデッガー『存在と時間』註解 存在への問い

ハイデッガーの『存在と時間』は、後世に対して多大なる影響を与え続けている著作だと思う。主題が魅力的である一方、内容は難解を極めており、哲学者にとっても難敵であると言うし、ましてや我々のような一般の読者が易々と読み解くことができる書物ではない。しかし、それにも関わらず、一般の読者がこの著作に憧れ読むことを諦めないのは何故であろうか。註解書の著者マイケル・ゲルヴェンは次のように説明している。 入門者や学生の方が『存在と時間』を読んで共感を覚えることが多いのは、まさにこの本が、ほとんど全ての人にとって非常に興味深い主題を含んでいるからである。死・良心・罪・本来的存在といったことに興味をひかれない人がありえようか?(p.018) ところが、逆に、ハイデッガーが死・良心・罪・本来的存在といった事項を扱っているが故に、従来の哲学に親しんだ者や注意深い読者にとってハイデッガーの哲学は胡散臭いものに映ってしまう。しかし、そうした意見を呈する者が言うところの哲学からは、死・良心・罪・本来的存在を問うことは抜け落ちてしまい、人間にとっても最も豊かで重要な関心事は問われないままになってしまう。 結局、こうした問題は哲学へのもっとも根源的な促しであって、こうした問題を副次的なものとして、あるいは「無意味」なものとものとさえみなしてなおざりにするというのは、そもそも人間はなぜ哲学するのかという隠れた問題を押しつぶすことなのである。(p.034) ハイデッガーが『存在と時間』で扱っている主題は、実は最も古くからある根本的なもの、「存在の意味への問い」(在るとはどういうことなのかを問うこと)である。こう書くと、壮大な理論の展開を想像してしまうが、実際に『存在と時間』の中で見出すことは、 人間の深い分析であり、人が世界の内におのれを見出す仕方であり、自己自身のかくれたる弱さをかばおうとする仕方であり、また、自分の内なる力の中心へと跳びいる仕方である。(p.038) 日々を自らに誠実に真剣に生きている人々が捜し求めている内容ではないだろうか。 ハイデッガーの描く人間は、彼の哲学そのものと同様、現代の奥深くでおこっている変化を反映している。それは、自己が真正でありうるか否かの責任を自らに背負い、自己自身の可能性に鋭く目ざめた人間の姿である。それはまた、非本来性によっ...