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カフカ 「掟の門」

その男が「掟の門」の前に来ると門は開いていた。門の前で守衛をしている屈強な男に、中に入ってもよいか問うと、門番は、今はだめだがどうしても入りたいなら中には入ってもよいという。ただし、中には自分よりも強い守衛が何人もいるから覚悟して行けとも言う。 男は待つことにして、「掟の門」の前で門番の隣に何年も座り続けた。何かのために持参した品々を門番に渡すと、門番は受け取ってはくれるがそれは男を通すためではなく、男の気持ちを受け取るためであるという。 ずっと待ち続けた男は、とうとうそこで息を引き取った。死の間際、目の前が暗くなっていく男には門の中に何か明かりが見えるようであった。男は意識が遠くなりながら、数年もの間待っているのにどうして誰も「掟の門」に入らないのかと尋ねた。門番は、この門はお前だけが入れる門だったのだと、もう何も聞こえない男に答え、門を閉ざした。 騙されたと憤る者や、知らなかったと悔やむ者や、人生はそんなものだと達観してみせる者もいるかもしれない。色々な読み方や解釈ができると思う。 覚悟して自分の道を進めと言われているのに、自分の未来に怖じ気づいて先に進めない人間がそこにあるように思う。それは人によっては、処世術かもしれないし、哲学や宗教的なものが見えるのかもしれない。 そこには、誰の心の中にもいる二人の自分が描かれている気がする。ものを考え問いかける自分と、それに答えるもう一人の自分。先に進もうか迷う自分と、やめたほうが良いと止めるもう一人の自分。自分が自分の未来を縛ることもあれば、犯してはならない罪への道を踏みとどまらせることもある。どちらも自分の力である。もう一人の自分に恥ずかしくないように生きること。 「カフカ短編集」 岩波文庫 フランツ・カフカ著 池内紀訳

ガルシア・マルケス 「予告された殺人の記録」

三十年前に田舎町で起きた殺人事件の記憶を「私」は辿っていく。 当時青年であった「私」はその町に住んでおり、犯人とは親戚、被害者とは学校の友人という関係にあった。年月が経ち人々の記憶がかすんでいくが、その一方で、事件に嫌悪する感情も薄れ、人々から改めて話を聞くことができた。犯人や被害者の親戚や近しい人々、当日犯人や被害者と接した人々、町に住む住民、様々な人から直接話を聞く。事件に関りのあった人々の言葉を拾って歩くうちに、事件の断片をモザイク画の画素のようにつなぎ合わせていくことで、事件が起きた時には良く見えなかった全体像が浮かび上がっていく。 殺人事件を扱っているが、推理小説のような謎解きではなく、また、犯人の心の内を描く心理小説でもない。人々の証言を断片的につなげながら、殺人事件を通して、事件が起きた背景にある複雑な社会状況を描いている。 被害者サンチアゴ・ナサールは、アラブ系コロンビア人で富裕層に属していた。若くして父親を亡くした彼は、既に家長であり、殺された当日も町の有力者として司教を迎える立場にいた。彼の立場や分別をもってすれば、事件を未然に防ぐこともできたはずであるが、そうはならなかった。 町へふらりとやってきたバヤルド・サン・ロマンは、最初は身分の知れない山師のような扱いを受けたが、前世紀にあげた軍功で国民的な英雄であるペトロニオ・サン・ロマン将軍の子息であると知れると、バヤルドは町の有力者としての待遇を受けるようになった。しかし、彼の母親はカリブ海出身の黒人の血を引く混血女であり、国の英雄とはいえ、複雑な家庭状況が窺える。 バヤルドは、結婚相手を探していたが、アンヘラ・ビカリオを見初めたのであった。彼自身も相当な富豪であり、金に糸目を付けぬ振る舞いが目立つ男であった。婚約が決まり新居を探す段になった時に、町で一番の邸宅と言われていたその持ち主に、大金を積み上げて、奪うように買い求めてしまった。 ビカリオ家は、貧しい過程であった。アンヘラの兄二人は、豚の屠殺を商売にしていた。それは、普通、社会では忌み嫌われる商売であり、彼らの貧しさや社会的な地位の低さが窺える。そうであったから、身分を超えた結婚に誇りを感じるとともに、不相応な関係に不安も隠し持っていたのであろう。 ところが、アンヘラ・ビカリオは、バヤルド・サン・ロマンという富...

マルサス 「人口論」 人口の重荷

本著は、人口に関する原理に関して、マルサスによって1799年に著されており、時期からしてフランス革命の勃発とその後の社会的な混乱を見て、理想主義と現実のかい離、その結果として現れた混乱を考察してものであろう。 人間社会は、人口と言う重荷を背負っており、人口を考慮せずして社会の動静を理解することはできない。つまり、人口によって社会の発展も限界づけられており、限りある世界の資源の中で養える人口には限界があるとマルサスは説いている。マルサスの考えは以下のような道筋を取って展開される。 議論の出発点として、人口は、つねに人口を養えるだけの生活物資の水準におしとどめらるという原理を提出する。これは明白な真理であり、多くの論者が指摘していることでもあることを説明している。 次に、前提として以下の2点を挙げている。第一に、食糧は人間の生存にとって不可欠であること、第二に、男女間の性欲は必然であり、ほぼ現状のまま将来も存続することである。 そして、ここがマルサスの理論の中心的な部分であるが、人口は、何の抑制もなければ等比級数的に増加する一方、人間の生活物資の増え方は等差級数的であるということである。人類の増加が食糧の増加とつりあうレベルに保たれるのは、必然性という強力な[自然の]法則が人口増加のパワーを抑止するものとして常時機能してのみ可能となるという。 生活物質、とりわけ食糧は、結局のところ農産物であり、土地からの収量に等しい。農産物は、農地の面積か、面積当たりの収量が増えない限り増えることは無い。それは、新しい開墾地で耕作が始まるか、科学的な進歩で肥料や耕作方法の飛躍がないと難しいし、経験則として以下に科学技術が発達しても爆発的な収量の増加は見込めない。 ところが、非常に直接的な言い方であるが、マルサスは、人の性欲は留まることを知らず、ただ、食糧が無くなるまでは増え続けるという。しかも、人口の増え方は食糧の増え方よりも遥かに大きいので、必ずどこかで人口は限界に達すると言っている。 別の言い方をすれば、人口は食糧がなければ増えることができないが、 食糧があれば人口はひたすら増加する。だから、いつも限界近くに人口は留まり、社会は余裕のない状態に置かれるのである。 マルサスは、人口増加の大きなパワーは、社会の中に貧困や悪徳を生み...

グレアム・グリーン 「叔母との旅」

主人公のヘンリー・プリングは、長年真面目に務めたロンドンの銀行の支店が閉鎖されるときに、退職して50代にして年金暮らしをしている人物であった。ずっと独身でありダリア園芸の他に趣味もなく、銀行と自宅の間を行き来する狭い世界に住んでいた彼にとって、大して金もなく知人友人もほとんどなく、引退してからの日々は時間を持て余すものであったのだが、彼の母親の葬式に出て、初めて叔母のオーガスタ・バートラムと出会ってからというもの、彼の人生は大きく変わることになる。 オーガスタはヘンリーを自宅に招いてくれたのだが、そこで驚くべきことを話した。ヘンリーは、確かに彼の父親の子であるが、実の母親は別人であるという。50も半ばにして、自分の母が義母であったことを初めて知ったのである。 オーガスタは、86歳になる前に亡くなったヘンリーの母親と12歳ほど離れた妹で、真面目な性格であったヘンリーの母とは反りの合わない、奔放な行動で活力にあふれ、はっきりとものを言うタイプの女性であった。(それだから、長年ヘンリーは叔母に会うことがなかったのであろう。)ずっと独身であったようで、世界中を飛び回り、幾人もの男性と関係も持っていたようでもあった。 狭い堅苦しい世界に住んでいたヘンリーにとって、オーガスタの生きている世界は、全くの別世界であり、先の見えない危うさとともに何か妖しい魅力を以て彼に光を投げかけて誘っているようでもあった。実際、旅行好きのオーガスタに、ヘンリーは旅行のお供を相談され、その後二人はあちこちを共に旅することになる。オーガスタと実際に旅行する旅であり、旅行の合間にオーガスタから聞く彼女の人生も旅そのものであった。 ロンドンからイスタンブールへ向かうのに、わざわざパリ発のオリエント急行に乗った時、道理に合わないがロンドンからパリまでは飛行機を使い、オーガスタは大きなスースケースをヒースロー空港に持ち込んだ。大量のポンドをこっそり国外へ持ち出すためである。みすぼらしい今にも壊れそうな柔な作りのスーツケースであれば、税関も荷物運搬人も詮索しないだろうという見込みの下の賭けの行動であった。著者グレアム・グリーンの諜報部員としての経験から書いている真実味のある裏の世界の人々の行動が、物語のあちこちに垣間見られる。 オリエント急行と言うと華やかな印象を持つが、実際の旅は、地味...

茨木のり子 「花の名」

茨木のり子の「花の名」は、父の告別式の帰り道に、その心中を詠んだ詩である。近親の者を失って、深い悲しみに心は暗く沈むのだけれども、著者の悲しみを知るべくもなく世の中はいつも通りに過ぎていく。世の中の平穏さと、著者の死者を悼む心中とが、詩の中で並行して並べられ、その落差に一層著者の悲しみを知るのである。 詩の場面は告別式からの帰りの列車の中である。ちょうど乗り合わせた男性客が浜松のストリップの話題に話しかけてくる。その客にとっての日常は、そんなことであったのだろうし、ある意味、人の生と性(さが)の最も現れた話題であったのかもしれない。人の生と死が隣り合わせに、併存していて、悲しみとばかばかしさとが一つ所にあって、大げさに人の死を嘆くよりも反ってもの悲しさが強まるような気がする。 著者は黙って自分の世界に引き入ったまま、通り過ぎたいのだが、客が話しかけてくるものだから、日常の世界に連れ戻される。そして花の名を問われるのである。 花の名を知っていることは素敵なことだと、著者の父が娘に対して教えたのだった。そんな父の思い出が、花の名前をきっかけに蘇ってくる。父は田舎の医者で、知的な人であり、著者を知性の世界に導いてくれた人だった。田舎の人々を助け、慕われ、涅槃図のように人々が集まって、その死を悼んでくれた。著者は、生きているうちに、父には言えなかったことがたくさんあったのだろう、そうやって、いくつもの記憶を辿りながら父に話しかけるのである。 「茨木のり子詩集」 岩波文庫 谷川俊太郎選 茨木のり子

グレアム・グリーン 「事件の核心」

第二次世界大戦時の西アフリカにあるイギリスの植民地が物語の舞台である。そうとは書かれていないが、シエラレオネである。そこは貧困や荒廃にまみれて、悲惨さの極みにあり、殺人や窃盗や汚職などが横行し、ヨーロッパ人、現地アフリカ人、中東から来るシリア商人など人々は平気で嘘をつき相手を欺きながら生きていた。悲惨な環境では生きるのに余裕はなく、そうしなければ生きていけなかったのである。そうできない者は、自死を選ぶしかなかった。 主人公スコービーは、そのような環境であるにもかかわらず、賄賂を受け取って蓄財することもできず、人を欺いて出世することもできず、日々の勤務を真面目に勤める警察副署長であった。スコービーはカトリックであり、神を心の底から信じていた、神を愛していた。彼には悪を為すことができなかったのである。彼は、人々を公平に扱おうとしたので、逆に人々に疎まれていた。 スコービーには、ルイーズという妻があった。インテリで、詩を読むことを好むのであるが、西アフリカに来るような一物あるような人々やましてや現地人には相手されない人物であった。ルイーズは、西アフリカで人付き合いが出来ず、唯一の話し相手であるスコービーにつらく当たり、彼はルイーズを持て余した。スコービーは、ルイーズを彼なりに愛していたが、ルイーズには伝わらなかった。夫婦喧嘩の際に出たのが次の言葉である。 「おまえはおれに平安を与えることができない女だ」   (中略)「私がいなくなればあなたは心の平安を得られるでしょう」「なんにもわかっていないんだな」 スコービーは、心の平安を求めていた。毎日生きるのがどんなに苦痛の連続であるか、彼はどうにかして心の平安を手に入れたいと熱望していた。それはルイーズが言ったように何かの悲惨さや苦痛の不在によって得られるものではなく、神から与えられるものであった。 ルイーズが西アフリカを離れて南アフリカへ行きたいといった時、賄賂を受け取らないスコービーには、金が全くなかった。そこで金の工面のために、彼は、皆から嫌われているシリア商人のユーゼフから借金をする。ユーゼフは、ダイアモンドの密輸で富を築いているという噂であったが、真相はわからない。世渡りの上手な人間であれば、ユーゼフのような危険人物と関わらないのだが、スコービーはユーゼフしか頼る人間がいなかった。 ...

グレアム・グリーン 「恐怖省」

時代は、第2次世界大戦の最中、多分1942,3年頃であろう。ナチスドイツと戦争状態にあるイギリスは、夜ごとにドイツによって首都ロンドンが空爆を受け、街のいたるところに廃墟となった建物や街路が増えており、人々の心にも暗い影が落とされていた。そんな中でも、日中は敵機が飛来せず、人々は怖れを抱きつつも日常生活を続けていた。 主人公アーサー・ロウは、プロテスタント教会で開催された慈善市に参加し、占いの店で自分でもそうと知らずに合言葉を口にしたことから、いわくありのケーキを手に入れ(本人はゲームの賞品と考えていたが)、ドイツのイギリスにおけるスパイ活動に巻き込まれていく。 ロウは、自分がスパイ活動に巻き込まれたことをずっと気づいていないし、また、彼自身は高邁な正義感を持つわけでもないが、自分の周囲に起きる不思議な出来事の裏に潜む秘密を解き明かそうとする。 しかし、ロウが秘密を解き明かしていく動機は何であろうか。 ロウは、憐みの心を持つ人であった。彼には妻があったが、不治の病に苦しむ妻を憐み、毒薬を飲ませて殺してしまった過去があった。裁判では、安楽死として無罪となっていたが、彼には自分の行為が許されるものだとは感じていなかった。妻のためを思って殺したのではなく、自分が妻の姿を見るに忍びなくて、妻を殺してしまったのではないかと感じているからであった。そうであるから、彼には自分は殺人者であり、世間の人々とは一線を画した別の世界に住む人間だと考えていた。実際、彼は、この事件のあと社会の何か活動に参加しようとしても、経歴を知られて拒絶され、社会から隔絶に近い形でロンドンに暮らしていた。だから、ドイツ軍の爆撃で破戒されたアパートに暮らしているのは、彼の精神生活と合っていなくもなかった。 自分を殺人者だと感じているロウを、妻を殺した同じ毒薬を紅茶に入れて、殺そうとした男がいた。後で振り返るとわかるが、慈善市のケーキを取り戻しに来た男であった。ロウは憤った。自分は妻を安楽死させるのにも、何年も躊躇し、考えあぐねて暮らし、そして実行に移したのであった。そんな自分の姿や心を嘲笑われたように感じたのだと思う。人を殺すのにも何も躊躇なく、他人への憐みも持たずに行動している者たちに腹を立てたのだろうと想像する。 ロウは、自分が殺されそうになったことから、何か秘密が隠れていること...