渡邊二郎 「構造と解釈」 構造主義と解釈学

「構造主義」と「解釈学」という考え方が、今日の代表的思想のひとつとして注目を浴びている。

構造とは、物事を成り立たせているいろいろな部分の組み合わされ方であり仕組みである。片や、解釈は、物事の意味を受けての側から理解することである。この説明には、構造という場合には何か「客観的な」仕組みが含意され、解釈といった場合には人間による「主観的」な理解が前提とされているように感じられる。

「構造」と「解釈」を別々に考えたときには、上述のように、「客観的」と「主観的」という対立が見られるのであるが、「構造と解釈」という両者の連関を考える場合には見え方が違ってくる。実際両者は密接に関連しているのである。客観的な「構造」も、人間的な主観によって発見され理解され把握されなければ意味を持たないであろうし、主観的な「解釈」もなんらかの普遍的なものの上に成り立っているのである。つまり、「構造」は「解釈」されることによって存在し、「解釈」は「構造」を理解することによって成り立つのであって、両社は密接に関連している。本書では、このような両者が連関する視点で、「構造主義」と「解釈学」とは何かを見ていくのである。

「構造主義」は第二次大戦後にフランスで起こった思想運動で、中心的な役割を果たしたレヴィ・ストロースによる構造人類学にその特徴が看取できる。構造主義は、言語学上のモデルを人類学や人間科学へと適用することで生じてきたもので、社会の中の下部構造に目を向け、要素ではなく要素間の関係を捉え、体系を把握するものである。

レヴィ・ストロースによって研究された「母方のおじ(伯父・叔父)と親族構造」は、構造主義の特徴を良く示していて興味深いものである。イギリスの社会人類学者ラドクリフ・ブラウンによって指摘されていたのだが、ある社会では「母方のおじ」は「甥」に恐れられ(この場合には甥は自分の父と親しい間柄となる)、別の社会では「母方のおじ」は「甥」から親しく振舞われる(この場合には甥は自分の父を疎遠にする)。ブラウンは、この現象を父系家族、母系家族という見方で解釈していたが、レヴィ・ストロースはこの家族関係を「父と子(親子)」、「父と母(夫婦)」「母とおじ(兄弟姉妹)」、「おじと甥」という4項関係の構造によって解釈すべきだと主張した。

「父と母」の夫婦関係が親しいときには、「父と子」の関係は親しくなり、「母とおじ」の関係も「おじと甥」の関係も疎遠となる。逆に、「母とおじ」の関係が親しい場合には、「父と母」の関係と「父と子」の関係が疎遠となり、「おじと甥」の関係が親しくなるのである。ここには父系家族、母系家族の考え方は入っていない。そこにあるのは、婚姻関係の構造、ある家族に生まれた女性(この場合は「母」)が婚姻によって他の家族へと結ばれたときの女性と生家との関係をその社会がどう扱っているかが重要となっているのである。その裏には、近親相姦を禁忌とする考え方が潜んでいるのだという。

構造主義は人類学に於いて力を発揮したが、より複雑な問題を取り扱おうとするのは無理があった。


現代の解釈学的な哲学の基礎を築いたのはハイデッガーである。ハイデッガーは解釈に関わる諸問題を深く掘り下げて解明し、解釈が人間の在り方と結び付けられて追究されたことは重要である。著者によれば、ハイデッガーによって、我々は、構造や解釈の問題全体を支える最も中心的な基底を獲得する地点にまで至れたのだと言う。人間が何であるか、世界が何であるか、を見極めようとするとき、我々は(ハイデッガーが説いたように)存在の問いから始めるのである。

ハイデッガーは「存在の意味への問い」を樹てる。「存在」と言ったとき、それは「~がある」という意味であるが、この言葉を他の言葉によって説明するのはできないといっていいくらい難しい。それは「存在」がもっとも根源的で最も普遍的な言葉であると言うことから来ている。しかし、我々は「存在」の定義ができないにもかかわらず、「存在」のことを知っている(このことを「存在了解」と呼んでいる)。であるから、「存在」を問うときには「現存在(人間)」による「存在了解」を手懸りとなるのである。「了解」されたものが「解釈」され、そして意味を持つようになる。


「構造と解釈」 ちくま学芸文庫 渡邊二郎著



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