ニーチェ 「道徳の系譜学」 

ニーチェは、本著に於いて、我々が行為をなす際に価値の基準となるもの、つまり道徳のことであるが、道徳という価値観を批判的に考察している。人間は認識者である。認識すること、判断すること、それらは哲学の中心的問題である。認識して判断する際に、人間が持つ価値観は重要な役割を果たす。

ニーチェの師ショーペンハウアーは、「非利己主義的なもの」、つまり同情の本能、自己否定の本能、自己犠牲など、を美化し神化したため、ショーペンハウアーにとって「非利己主義的なもの」は価値そのものとなった。このため、自分自身を見つめその中に存在する生が如何にその価値から離れた存在かをわかっていた彼は、生に対して、自己自身に対して、否と言ったのだという。しかし、ニーチェにとって、「非利己主義的なもの」による価値は、人間を自己否定へと追い込むものであり、虚無へと誘い込むものに見え、ニーチェは道徳という価値観に懐疑的である。ニーチェから見ると、道徳という価値観は疑うことなく判断の基準とされており、哲学者といえどもその呪縛から逃れられていない。ニーチェは、道徳の起源を探究することで道徳の価値という問題に迫っていく。こうした批判の裏には、道徳が否定された後に、ニーチェは新しい価値観の創造を目指そうとしているのである。

3つの論文によって、ニーチェは考察を進めていく。



第一論文: 「善と悪」と「良いと悪い」
道徳、つまり良いことと悪いことの概念、は如何にして生まれたのであろうか。ニーチェは、古代社会で支配層にいた高貴な人々、力の強い人々、高位にある人々、高邁な人々が自らの行動を肯定し、低位にある人々、卑賤な人々、心情の下劣な者たち、粗野な人々の行動との違いを第一級のものと感じ評価したことから生じたと仮説している。彼ら高位にある人々が良いことと悪いことの貴族的な価値を作り出していったのである。

しかし、ユダヤ人は、こうした「貴族的な価値の方程式を(すなわち良い=高貴な=力強い=美しい=幸福な=神に愛された)、凄まじいまでの一貫性をもって転倒させようと試みた」。ユダヤ人にとっては、「惨めな者たちだけが善き者である。貧しき者、無力な者、卑しき者だけが善き者である。苦悩する者、とぼしき者、病める者、醜き者だけが敬虔なる者であり、神を信じる者である。」これとは逆に、「高貴な者、力をふるう者」は「永遠に悪しき者であり、残忍な者であり、欲望に駆られる者であり、飽きることを知らぬ者であり、神に背く者である。」この価値の転換を受け継いだものがキリスト教だというのである。

道徳における価値の逆転には、ルサンチマン(怨恨の念)が創造する力を持ち、価値を生み出すことに始まるという。高貴な者が作り出した価値は自己肯定の言葉であったが、逆に低い者たちが作り出す価値は自己ならざる者を否定する言葉であり、この否定の言葉が彼らの創造なのである。

象徴的に「ローマとユダヤの闘い」とニーチェは書いているが、ローマ(高貴な価値)とユダヤ(低き者の価値)の闘いは、ユダヤつまり低き者(ニーチェは奴隷と言っている)の勝利に終わっている。ローマ帝国はユダヤ王国を滅亡させたが、彼らの宗教の一派であるキリスト教は政治の圧迫にも関わらずローマ帝国の国教となってヨーロッパ全地域へと広がった。ローマ帝国が滅亡した後にもキリスト教会は残り、その価値観は永続したのである。そのキリスト教の起源は、ルサンチマン(怨恨の念)の精神によって生まれたとするのである。



第二論文: 「罪」「疚しい良心」およびこれに関連したその他の問題
約束することができること、それは責任が取れることである。責任とは、自由である意識、自主的で誇り高い意識の産物である。ニーチェは、限られた者しか有さないこの責任を産み出すことになった本能のようなものを良心としている。

しかし、誰もが良心をもって約束を守れるわけではなく、疚しい心を持っているもので、そこには刑罰によって人を従わせようとする社会があった。疚しい心が外部へと現れたとき、刑罰によって人々の記憶に必要な決まりを残すのである。人が物覚えが悪くて約束を守れなければそれだけ刑罰は苛酷で陰惨なものとなっていった。外部へのはけ口を失った疚しい心は、残虐性を伴って内部へと向けられる。この内面化に伴って、人間は人間であることに、自己自身に苦しむことになる。自己否定はニヒリズムへと向かってしまう。

キリスト教では、人が背負っている罪や負い目を、神自らが引き受けるのである。「自分には否定的だったものが存在し、生き、現実であるもの、神となる。こうして神の神性、神の審判、神による処刑、彼岸、永遠、終わりなき拷問、地獄、罪と罰の計り知れなさといった概念が生まれたのである。」人間は救済されたかのように見えるが、聖なる神の前では、人間は絶対的に無価値な存在となってしまうのである。人間は如何に苦しみながら生きていることか。

ニーチェは言う。人間に再び希望を取り戻させる者が来ることを。神無き者つまりツァラトゥストラだけが、人間に希望を取り戻すことができると。彼はいつか来なければならない者であると。



第三論文: 禁欲の理想の意味するところ
禁欲という理想の意味するところは何だろうか。例えば芸術家にとって禁欲の理想は何も意味しないであろう、というのも禁欲の理想で芸術家は何も創造し得ないであろうからである。例えばヴァーグナーが、勇敢で強壮で快活で勇敢であった彼が、官能的なものを持っていなかったとしたら、あの壮大な作品群が生まれえたであろうか。

では、哲学者にとって禁欲の理想はどうであろうか。ニーチェはショーペンハウアーを例に出して説明している。「ショーペンハウアーは性的な問題を個人的な<敵>とみなしていた。しかし、彼が上機嫌でありつづけるためには、この<敵たち>を必要としたことを軽く考えてはならない。かれはいかりに満ちた言葉、胆汁質で暗い言葉を好んだこと、情念に駆られて、怒るために怒ったこと、もしもショーペンハウアーに<敵>がおらず、ヘーゲルもおらず、女も官能もなく、存在し、生存しつづけるいかなる意思もなかったならば、きっと病気になっていただろうし、ペシミストになっていただろうということも、軽く考えてはならないのだ。

一方、哲学者は禁欲の理想を表明することが必要であり、そのためには禁欲の理想を信じることが必要であった。つまり、官能を必要とする哲学者が自己を誤解することによって、哲学は存在していたのだとするのである。

禁欲的な司牧者(僧侶)が支配したところでは、常に精神的な健康が損なわれた。(中世の舞踏病や魔女狩りなどはその例であろう。)

禁欲的な理想に対して、ここまで批判的な意見を述べてきたニーチェではあるが、禁欲的な理想が無かったならば人間には生きる意味が無かっただろうと言う。人間は何のために存在するのか、この問いに対する答えが無かった。「人間と大地を支えようとする意志が欠けていたのである。」人間には自分を肯定するものが欠けていた。禁欲的な理想は、この人間には何かが欠落しているということであった。ニーチェによれば、禁欲的な理想は、人間の生の苦悩に対して、意味を与えるのではなく解釈を与えたというのである。しかし、禁欲的な理想は生を否定する行き方である。それでもニーチェは意志をもっていきるべきだと言っている。



「道徳の系譜学」 光文社 フリードリッヒ・ニーチェ著 中山元訳



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