プルタルコス 「英雄伝」 ギリシャ民主制とペリクレス

古代ギリシャ アテナイ(アテネ)の黄金期(紀元前5世紀中頃)を支えたのがペリクレス(紀元前495年頃~紀元前429年)であった。

ペリクレスはギリシャで一流の家系に生まれた。父クサンティッポスは、ペルシャ戦争時にミュカレでペルシャ軍の将軍達を打ち破った人であり、母アガリステは、クレイステネスの孫娘に当たる人であった。このクレイステネスは、僭主ペイシストラトスおよび一族を追い出して僭主支配を終わらせ、崇高な精神で法を制定して、協和と秩序に満ちた国政を樹立した人である。ペリクレスは、生まれたときから頭が大きすぎて釣り合いが悪かったそうで、彼の彫像がほとんど全て兜をかぶっているのは、彫刻家達がその不釣合いな頭の大きさに配慮したためだという。

ペリクレスが偉大な人となった1つの要因として彼の教師であるクラゾメナイの人アナクサゴラスを挙げている。アナクサゴラスは、当時の人々から「ヌース(理性)」と呼ばれたが、これは自然学に造詣が深く、また、宇宙秩序の原理として、「偶然」や「必然」ではなく「理性」を挙げた人であったからだという。アナクサゴラスの薫陶を受けたペリクレスは、気位は高く、言葉付きも崇高で、まげても笑わない顔の構え、立ち居振る舞いの穏やかさ、よどみ無い発声方法など、全ての人々を感服させる資質を持っていた。また、アナクサゴラスの影響で、彼は迷信からも超越していたという。

ペリクレスは、若い頃、政治に全く携わらないでいた。というのも、ペリクレスは、富や有力者の知人もあり、またペイシストラトスに姿や話し振りが似ていたため、民衆から僭主の嫌疑をかけられて陶片追放にあうのを恐れたためであった。しかし、アテナイの有力者であった人々、アリステイデスが死に、テミストクレスが国外追放となり、キモンが遠征のために国外へ留め置かれると、ペリクレスは政治を担うようになる。

ペリクレスは、貴族派キモンへの対抗として民衆派となったが、常に民衆と接触することで軽く見られるのを避けるために民衆とは間を設けようとし、自らに紀律を課して、往来では自邸と評議会場に通じる道しか歩まず、食事の招待や親睦の会を全て断ったのである。ペリクレスは民衆派と言われるが、トゥキュディデスは、貴族派に属し長くペリクレスの政敵であった人であるが、ペロポネソス戦争を記した有名な著書「歴史」の中で、ペリクレスの政治は貴族的なもので、「名目は民主政であるが、実際は第一人者による支配である」と書いている。

アテナイの司法権はアレイオス・パゴス(アレオパゴス)評議会が握っていたが、エフィアルテスによって司法権を奪われ、実権は民衆裁判所、民会へと移り、アテナイの民主化は一層の進展を見せた。

民衆派ペリクレスの政敵である貴族派の人々は、ペリクレスの勢力が増していくのを見て、一人支配(モナルキア)にならぬように対抗者を立てようとして、トゥキュディデス(上述した「歴史」の著者)を起用した。

ペリクレスは、アテナイへ移してあったデロス同盟の共同資金を使ってアテナイに煌びやかな装飾が施された彫刻や神殿を作り上げた。これらの様々な建設は、アテナイの繁栄を写し出す者でもあったし、また公共事業として貧しい人々に収入をもたらした。こうしてペリクレスは一層民衆の支持を得たのである。政敵トゥキュディデス一派が、ペリクレスが国家の金を公共事業に湯水のように使いすぎるといって非難したことがあったが、ペリクレスは、それなら自分個人の費用でこの建設を完成させ建造物奉献の銘もペリクレス個人だけにするつもりだと答えた。すると論敵は、奉献の銘に自分達の名前を刻んで歴史に名を残したかったのか、ペリクレスが公共事業に金を使うのを認めたのであった。こうした後、ペリクレスはトゥキュディデスを陶片追放するのに成功したうえで、政敵の政治結社を解散させた。

こうして政敵を退け政治的に安定すると、ペリクレスは、アテナイ国内だけでなくそのころアテナイが持っていた周辺のギリシャ人や異民族に対する覇権(帝国支配:アレケー)をも一身に集めてしまった。こうなると、ペリクレスは、民衆の意見に左右されなくなり、貴族政・王政的な政策を前面に打ち出し、国家の最善へ向かって真っ直ぐに施策を進めた。時には民衆が嫌がる政策も、民衆の手綱を引き締めて、国家の益となる方向へと強引に向かわせたのである。

ペリクレスがこのような実権を持ちえたのは、彼の巧みな弁論術に加えて、贈賄に動かされない金銭的な潔癖さにあった。彼は、アテナイが既に偉大な国であったのを、さらに最も偉大で最も豊かな国にしたし、自分自身を僭主や王侯よりも勢力のある者にした。こうして、40年もの長き間、エフィアルテス、レオクラテス、ミュロニデス、キモン、トルミデス、トゥキュディデスといった一流の政治家と伍して第一人者であり続けたのである。

ペリクレスは豊かな財産を持っていたが、家庭では非常に切り詰めた消費生活を送っており、息子には不満なものであった。

ペリクレスは、任期が1年の将軍職に15年間連続で選ばれたが、それほどに彼は軍事面に於いても信頼され、また実績を残した。彼は、軍隊指揮では安全を旨とするところで名声を得た。不確実で危険をはらむような戦いに自ら挑むことはしなかった。危険に身をさらすことで偶然の幸運に恵まれてその結果として偉大な将軍と尊敬される人々を敬いも羨みもしなかった。トルミデスが時機でもないのにボイオティアへ遠征しようとしたとき、ペリクレスは次の有名な言葉を残したのだという。
ペリクレスの言に従わずとも、最も賢明なかの助言者さえ待たば過ちを犯すことはるまい、それは時(クロノス)である。

アテナイの偉大な国力と幸運によって勢力が伸びたときに、民衆はエジプトやペルシャ帝国沿岸部への遠征を提案しても、ペリクレスは遠国への干渉はアテナイの国力以上の企みであるとして同調しなかった。ペリクレスがアテナイの勢力をギリシャ内に限ったのが正しかったのは、その後シシリーへの遠征が失敗に終わったことでも明らかであろう。

ペリクレスは、アスパシアという名の愛人を持っていたが、後に妻と離婚してアスパシアと結婚したのだという。アスパシアは政治のことをよく心得ていたので、ペリクレスがこれを愛したのだという。

ペリクレスは、サモス人と戦ったが、トラギアイという島の近くであった海戦で敵船70隻を破るという輝かしい勝利を収めている。サモスの町を包囲して、9ヶ月も攻城戦を戦ったが、この際に軍隊が撃って出ることを望んでもそれを抑え、あくまでも味方の損失を防ぐために、包囲による降伏を目指したのである。

ペロポネソス戦争時に、ラケダイモン人(スパルタ)の軍隊はアルキダモスに率いられてアッティカへと侵入したが、というのも6万の軍勢を擁するラケダイモン人は、アテナイと会戦することで選挙区を有利に進めようという意図があった。これに対して、慎重なペリクレスは、大軍勢との会戦という不確実な手段は取らず、アテナイ市内に籠城しようとした。籠城と併せて、海軍を相手側へ派遣して海上から相手の町々を破壊させた。陸上ではアテナイは大きな被害を蒙ったが、海上(沿岸)ではアテナイはラケダイモン人へ大きな被害を与えたわけで、戦争が長引かなければペリクレスの目論見通りに講和が成立したはずだった。しかし、ペリクレスといえども超自然の力には敵わなかた。疫病が発生して年齢や体力でも元気な人々でさえ病に命を落としたのである。民衆は、疫病の流行の責任を籠城という方法を取ったペリクレスに求めた。ペリクレスは民会で軍事指揮権を剥奪され、罰金をも求められた。

疫病によって、ペリクレスの家族も多くが命を失った。人前で泣き悲しむところを見せたことが無かったペリクレスであったが、息子のパラロスが亡くなったとき、声を限りに慟哭して泣き悲しんだという。

ペリクレス自身も後に病にかかり、臨終の間際に名士や友人達が集まって彼の業績や戦勝を数え上げた。臨終の際(きわ)で意識を失っていると集まった人々が考えていたのだが、ペリクレスは一部始終を聞いていて、次のように言ったという。人々がペリクレスの業績として称賛しているものは偶然の力による事柄に過ぎず、これまでも多数の将軍の身にも生じたことである。だが、最も偉大で最も優れた業績を語っていないのは意外である。「それは市民の誰一人として私のせいで喪服をつけずに済んだことである」と。

ペリクレスの死後、アテナイの人々は、彼の偉大さに改めて気がついた。威厳と節度、温和と尊厳がある人柄は、他に求めようも無かった。一人支配とか僭主支配と呼ばれて、人々から嫉妬されたペリクレスの勢力も、亡くなってみると、アテナイ国家を守る支えであったことが認識されたのである。ペリクレス亡き後のアテナイには、悪が、隅々まで大きな力をもって、はびこってしまったのである。


「プルタルコス英雄伝(上)」 ちくま学芸文庫 プルタルコス著 村川堅太郎編 安野光雅装丁

コメント

このブログの人気の投稿

フレイザー 「金枝篇」 ネミの祭司と神殺し

ヴォルテール 「カンディード」 自分の庭を耕すこと

安部公房 「デンドロカカリヤ」 意味の喪失