バウムガルトナー 「カント入門講義」 『純粋理性批判』読解のために

カントの『純粋理性批判』は近代哲学の基本的な書物である。『純粋理性批判』において、カントは、人間理性の可能性と限界を探究し、新しい哲学的な尺度を与えたのだった。しかも、人間の自由の可能性の哲学的な基礎をも明らかにしている。つまり、人間は自然法則に支配されながらも、如何にして自由に行為できるかという問いへの哲学的な答えを与えているのである。

カントは、感性を通した経験に基づいた概念は経験的と呼ばれ、一方理性に起因する概念であるときに純粋と呼ばれる。つまり、『純粋理性批判』は、感性によらず、理性に起因する概念と原理を扱うのである。では批判とは何か。精選され区別されたものが、果たして正当性を持ちうるかを問うことにある。純粋理性に関する精選され区別された概念や原理が哲学的な意義を持っているか。この概念を使って、我々は理性的な行為(認識すること)をなしうるのか。また、この概念を用いてもいいのか。これらの問いを批判的に探究していくのである。

カントが『純粋理性批判』を著した時期(第1版1781年、第2版1787年)は、複雑な時代であった。啓蒙の時代と言われ、ついにはフランス革命へと至る社会的政治的な機運があった。逆に啓蒙思想に反対して、心情や敬虔さや内面的平安に重点をおいた敬虔主義の宗教的な世界もあった。コペルニクス、ガリレオ、ニュートンなどに代表される自然科学の大きな流れもあった。

この時代に、哲学に於いては、ベーコンの経験論に対してデカルトの合理論が対立していた。合理論は、デカルトが哲学を「私は考える」ということに立脚して基礎づけをして以来、スピノザ、ライプニッツへと受け継がれていった。一方ベーコンの流れを汲む経験論は、ホッブズ、ジョン・ロックを経て、ヒュームへと至っていた。

カントの『純粋理性批判』は、合理論と経験論の対立という課題と、懐疑論の課題の大きな2つの課題に対して肯定的な解答を与えた。


経験論に於いては、我々の認識は全て感性的である。それは、目や耳などの感官を通じて認識が始まるだけでなく、感官に認識が留まり続けるのである。我々が反省し熟考する全ての概念は、認識は感性的な材料に関係する限りに於いてのみ意味を持ち、感性的な材料から離れれば意味を持たなくなるという理論であった。我々の理性は知覚を認識し、ざまざまな知覚を互いに関連付けて、等しいか異なるかを判断するだけの力しか与えれていないとするものであった。

合理論においては、我々の認識は全て理性的である。理性によって概念が思惟されるだけでなく、感性も矮小化した理性であると考えられた。


経験論と合理論の対立に対して、カントは、感性と理性の橋渡しをすることによって肯定的な解を与えた。我々の知識は論理学からだけから成り立っているわけでなく、また、同様に我々の知識が経験だけから成り立っているわけでもない。感性と理性を橋渡しするようなア・プリオリな哲学的知識が存在するのである。

ヒュームは、我々の知識が知覚からのみ成り立っているならば、知覚を通して与えられた世界が互いに関連しないばらばらの知識に分解しないようにできるのかを探究した。それは、因果性と実体との関係を探究することであった。ヒュームの到達した懐疑論は、因果性と実態との関係は、経験的な概念でも合理的な概念でもなく、想像と習慣に基づくものであるということだった。因果性が想像や習慣であったとすれば、因果性は不確実なものとなり人間が自然科学を行うことは不可能になってしまう。

懐疑論に対するカントの解は、悟性の基本概念、つまりカテゴリー説であった。人間にはア・プリオリに因果性を認識できる構造が与えられているというものであった。ここにおいて、カントは、人間理性の可能性と限界を示し、新しい哲学的な尺度を与えた。しかも、人間の自由の可能性の哲学的な基礎をも明らかにできたのである。つまり、人間は自然法則に支配されながらも、如何にして自由に行為できるかという問いへの哲学的な答えを与えることができた。





「カント入門講義」 法政大学出版局 有福孝岳監訳




コメント

このブログの人気の投稿

フレイザー 「金枝篇」 ネミの祭司と神殺し

ヴォルテール 「カンディード」 自分の庭を耕すこと

安部公房 「デンドロカカリヤ」 意味の喪失