プルタルコス 「英雄伝」 サラミスの海戦とテミストクレス

テミストクレスは、古代ギリシャの人で、ペルシャ戦争におけるサラミスの海戦を勝利に導いたギリシャの政治家・軍人である。

マラトンの戦いでのペルシャ軍の敗北により、多くのギリシャ人はペルシャ戦争は最早終結したと判断していた。しかし、テミストクレスは、マラトンの戦いはその後に続く更に大きな戦いの前哨戦に過ぎないとして、一人、来る戦いを予見した。

テミストクレスは、来るペルシャとの戦いには海戦が重要になると見抜き、船の建造を画策した。そのころ、ラウレイオン銀山から出る銀の収益はアテナイ市民の間で分配される慣わしであったのだが、テミストクレスは、民会に於いてアテナイに対抗する海洋都市アイギナへの戦いを口実として、銀山の収益で三段櫂船を建造すべきだと民衆を説きふせた。こうして、十分な時間的余裕のある時期に、100隻の三段櫂船を建造して、ペルシャとの戦いに準備することができたのである。また、アテナイの民衆を訓練し、海戦にも備えた。

ペルシャ王クセルクセスがペルシャ軍を率いて進軍を開始したとき、アテナイ市民は対抗する将軍を選ぼうとしたが、有望な者がしり込みをしたため、口が達者でも性根が座らぬ民衆指導者エピキュデスが将軍の職に選ばれそうになった。この時、テミストクレスは、エピキュデスではギリシャ軍の統帥はできぬと見て、エピキュデスを金で買収して辞退させ、テミストクレス自らが統帥権を手中にしたのである。

ペルシャ王から遣わされたギリシャに降伏を促す使節を、ペルシャのような野蛮な者の命令を伝えるのにギリシャ語を以ってしたのは遺憾であるという理由で、テミストクレスは処刑してしまったという。これはギリシャで賞賛を受けることになった。こうしたペルシャ戦争にまつわる話はいくつも残っているが、ペルシャ戦争時のテミストクレスの最大の功績は、それまで互いに敵対しあっていたギリシャ人を説得して和解させギリシャ内の戦争を終結に導き、ペルシャに対して一致団結させたことであるという。

いざペルシャとの戦いが始まると、艦数で他よりも多いアテナイ軍はギリシャ連合軍の中に入って指揮を受けることを潔しとしなかった。しかし、テミストクレスは、スパルタのエウリュビアデスが指揮するギリシャ連合軍に入るようにアテナイ軍を説き伏せた。このことで、アテナイ軍は、勇気の点では敵軍に勝り、思慮分別の点では同盟軍に勝ると名声を得たのである。

エウリュビアデスは、ペルシャ艦隊が多数に及ぶのをみて怖気づき、ギリシャへ引き返して陸軍と一緒に戦うことを考えたのだが、テルモピュライ(テルモピレー)の戦いで善戦虚しくレオニダス率いるギリシャ軍が敗れたことを聞くと、サラミスから撤退してギリシャ本土へ引き返そうとした。

テミストクレスは、サラミスという海峡の地の利を活かすべきだと考え、シキンノスの一計を編み出した。シキンノスはペルシャ人であったがギリシャの捕虜となり、テミストクレスに好意を抱き、彼の子供の養育係にもなっていた。テミストクレスは、シキンノスを密かにペルシャ軍を率いるクセルクセスのもとに送り、次のように言わせた。すなわち、テミストクレスはペルシャ側に加担していているがゆえにギリシャ軍が撤退するのをペルシャへ密かに伝えて、サラミスから撤退する前の好機にペルシャ軍がギリシャ軍を討つように勧めているというのである。クセルクセスはこの言葉を信じ、ペルシャ軍は海峡を封鎖した。撤退しようとしていたギリシャ軍は、ペルシャ軍に封鎖されたことを知り、やむなく戦うことにしたのである。

ギリシャ軍は地の利を使った。サラミス海峡はある時刻になると外海から強い風が吹いて、海域が波立つのだが、船体が軽く甲板も低いギリシャ船にはそれほど影響がなく、逆に船体が重く甲板が高いペルシャ船は風にもろに吹き付けられて傾き船腹をギリシャ軍に曝したのであった。ギリシャ軍は、この機にいっせいに攻めかかった。こうして、ギリシャ人によっても異民族によってもなされたことがないような海原での勝利がギリシャ軍にもたらされたのであった。この勝利は、1つにはギリシャ軍兵士の勇敢さによったが、1つにはテミストクレスの判断と手腕によるものであった。

ペルシャ海軍は壊滅したとはいえ、ギリシャ本土まで進軍した大きなペルシャ陸軍は無傷であり、陸軍を如何にして撤退させるかがギリシャ側の問題となっていた。テミストクレスは、ペルシャ王付きの宦官アルナケスをペルシャ王に派遣して次のように言わせた。すなわち、ギリシャ軍は海軍力で優位に立ったので、ヘレスポントス海峡にペルシャ軍が作った船橋を破壊するつもりである。テミストクレスは、ペルシャ王のことを案じ、船橋が壊される前にギリシャからアジア側へ早く戻られることを勧めるというのである。これを聞いたペルシャ王は急に怖気づき、急ぎ大軍を率いてペルシャへと戻っていった。

戦いが終わると、テミストクレスはペルシャ軍によって壊滅的な被害を受けたアテナイの再建に取り掛かった。また、海港ペイライエウス建設も行い、アテナイの海軍力強化にも貢献した。

こうしてペルシャ戦争やアテナイ復興に大いなる貢献をしたテミストクレスであったが、市民の嫉妬を受けて陶片追放に処されてしまう。ギリシャ各地を転々と逃げ回った後、行き先を失い、終にはかつての敵ペルシャに渡るのである。ペルシャ王は、テミストクレスの人間の大きさに惚れたのか、彼を助命して側近とした。しばらくの間、テミストクレスは平穏な生活を送っていたが、ギリシャ問題でペルシャが動くことが必要になったとき、テミストクレスがその任を請われた。テミストクレスは、自分の生まれ故郷に敵対することを潔しとしなかったのか、自害したのである。実に波乱万丈、豪傑の生涯であった。



「プルタルコス英雄伝(上)」 ちくま学芸文庫 プルタルコス著 村川堅太郎編 安野光雅装丁

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