大野晋 「古典基礎語の世界 源氏物語もののあはれ」

源氏物語を読むことは日本文化を愛するものにとって憧れであるが、原文で読むのは研究者にとっても難しいものである。古典語には未だに言葉の意味がわからないものも数多くある。中には、紫式部がその言葉に込めた重要な意味を、研究者といえども捉えきれずに見過ごしてきたものもあるという。本著では、「モノ」という言葉を深く掘り下げているが、研究者達に見過ごされてきた言葉の一つである。

「モノ」というと現代語では「物体」のことを指して使われる。これとは異なる用法として、「彼はモノの分からない人だ。」という例があげられる。これは、「世間の道理が分からない人」ということを意味しているが、実は古典の世界で「モノ」は「物体」とは異なる意味で使われるのである。

古典の世界で、「モノ」は個人の力では変えることのできない「不可変性」を核とした意味をもつのである。著者は「不可変性」に由来する意味を次の(1)~(4)の4つに分類している。
 (1)世間のきまり
 (2)儀式、行事
 (3)運命、動かしがたい事実・成り行き
 (4)存在

 (5)怨霊(おんりょう)

これらの「モノ」の解釈は、「モノ」と組み合わされた複合語(例えば、「もののあわれ」など)の理解に重要な役割を果たす。なお、(5)怨霊は、(1)から(4)までの意味と由来が全く異なる見られている。

例えば、「もののあはれ」という複合語は、本居宣長以来、殊に大切な言葉だとされてきた。

まずは、言葉の元となる「あはれ」という言葉を見ると、次のように多くの意味を持っている。

 (A)心に愛着を感じるさま。いとおしく思うさま。親愛の気持ち。
 (B)しみじみとした風情のあるさま。情趣の深いさま。嘆賞すべきさま。
 (C)しみじみと感慨深いさま。感無量のさま。
 (D)気の毒なさま。同情すべきさま。哀憐(あいれん)。思いやりのあるさま。思いやりの心。
 (E)もの悲しいさま。さびしいさま。悲しい気持ち。悲哀。
 (F)はかなく無常なさま。無常のことわり。
 (G)(神仏などの)貴いさま。ありがたいさま。
 (H)殊勝なさま。感心なさま。

このように多くの意味があるのは、この言葉が現れた文章のその場その場の訳を並べてあるからで、「あはれ」という言葉の底を貫く意味があるはずだという。源氏物語で実際に使われている場面を一つ一つ丁寧に辿り、「あはれ」の持つ個性的な意味を捉えていく。実は、「あはれ」は、対象を外から見ていて、そこに対象に対する共感があり、そのような状況で心に生じてくる気持ちを表現しているのだという。それだから、上に挙げたように悲喜こもごもの感情が表現されうるのである。

「モノ」は、先に挙げた運命、人が動かしがたい事実という意味を持っている。「もののあはれ」というとき、「人の世のさだめのあわれさ」という意味で使われているが、特に源氏物語は男と女の恋の物語でありその成り行きを語るものであることから、「男と女の出会いと別れのあわれさ」という意味に片寄って使われている。源氏物語に於いて、人生とは男と女の相逢うことと相別れることに他ならなかった。


「モノ」の意味を正確に把握していくと、「平安時代の宮廷人たちがいかに規則・儀式などの社会的制約に縛られて生活していたか、人生あるいは人間の運命の不愉快や深い恐怖感をもって日常を生きていたかなど、当時の宮廷生活をそこに生きる人々の精神の世界を垣間見ることができる」のである。



「古典基礎語の世界 源氏物語もののあはれ」 角川ソフィア文庫 大野晋編著






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