グレアム・グリーン 「権力と栄光」 神の不在と神の臨在

物語の舞台は、メキシコで共産主義政府が樹立され、キリスト教徒への迫害が激しかった時代、メキシコ南東部のタバスコ州である。タバスコ州は、メキシコの中央から離れた山岳地帯で、メキシコの中でも極貧の地域である。

共産主義者による迫害で、キリスト教(この国ではカトリック)は禁止され、教会は取り壊され、神父は国外に逃亡するか逮捕されて国家反逆で殺されるかという運命にあった。タバスコ州に残っていた神父は、政府が公認したホセ神父だけであるが、彼は公的に結婚し国から年金を支給される生活を送っているものの、カトリックの神父として祈ったり祭儀を執り行ったりすれば国から咎められるのであった。それは、政府によるカトリックへの侮辱の象徴であった。

そうした環境で、主人公の神父(名前は与えられていない)は、逃亡生活を続けながら一人州内に留まっていた。禁じられているカトリックの神父として、留まっているだけであった。自分では何かの目的があって、そうしている訳でもなく、警察から逃れているうちに気づくとそういう境遇に陥っていた。唯一残った神父として高らかにカトリックの威厳を知らしめるわけでもなく、神の栄光を一身に受けているわが身を誇示するわけでもなく、また、人々に神による平和と赦しを与えることを目的ともしていなかった。ただ捕らえられて殺されるのが怖かったのである。主人公は、酒を飲み、山奥の村女との間に私生児まである破戒の僧でもあった。

対して、警察にはカトリックを忌み嫌って主人公をしつこく追いかける警部がいた。彼は、貧しいメキシコ人の生まれで、自分たちのメキシコの国が貧しく人々が飢えに苦しむのは、彼らを餌食として栄える者がいることが原因だと考えていた。メキシコ人を食らって生きている者たち、その中には暴利をむさぼる金持ちもいれば、腐敗した官僚もいるし、カトリックの僧侶も同じであった。警部は、そうした悪い奴らを掃討して社会を明るくして、国を、そして若い人々を貧困から救い上げたかった。警部のひたむきさ、真剣さは、腐敗したカトリックに対する人間の理性の優越を想像させるかもしれない。

主人公は、驢馬に乗って厳しい気候と地理条件の中をひたすら逃げ続ける。警察に捕まれば銃殺である。特に警部が追いかけていることはわかっていた。逃亡中に村があれば、村人たちの告解を聞き、ミサを献げる。カトリック信者の人々は、自分の犯した数々の罪に対して神を怖れ、神の赦しを得られる機会を求めていた。

主人公が自分の妻が暮らす山奥の村に逃げ込んだ時に、彼は初めて自分の子供と対面した。それは想像していたものとは全く異なる、厳しい現実であった。子供は、女の子であるが、神父の前では何も語らず、暗い顔で神父を無視する態度を見せただけであった。彼女は、自分が神父の私生児であるということで、子供や村人にあざわらわれる運命に激しく押しつぶされ身もだえていた。自分の血を恨み、母親の言葉を聞かず、今にも一人で世界へ飛び出していきそうな命であった。

逃亡が長く続くようになると、彼にも自らが何か英雄めいた存在であるように感じられる瞬間もあった。しかし、自分の子供との対面は、そうした気持ちが否定される瞬間であった。一体自分は自分の子供も救えない中で、ただ逃亡しているだけで、何をしているだろうか。

混血児というからメキシコ人と白人の混血であろうか、物語の途中から混血児が主人公の行く手を阻み、付いては離れない存在となる。主人公は、混血児が自分を懸賞金目当てに警察に密告しようとしていることを見破るのであるが、突き放しても必ず行く手に現れるのである。混血児に、キリストを裏切ってユダヤ人たちに渡したユダのようなものを主人公は感じた。

時折、礼拝に使う葡萄酒を仕入れに、警部のいる町へ危険を冒して向かった。その途中で、禁止された酒を持っているということで警察に捕まり、警部のいる署の監獄に入れられる。監獄は悲惨な、まるで地獄のような場所であった。真っ暗な中に、多分奥行10フィート位の狭い空間である、10人以上の人々が男女一緒に入れられていて、愛の行為をする者さえいる。主人公は座る場所もなく、壁際に場所を作った。

主人公は翌朝には警部に見つかり処刑されるだろうと、自分の運命が終わりに近づいていることを認識して諦め、自分が神父であることを監獄の人々に明らかにした。人々は驚いたが、ユダにはならなかった。人々は信者でなくても、神父を、あるいは神を、心のどこかで信頼し愛しているのだろう。絶望の中にあって監獄がこの世の現実そのものであることを知り、その上で、この世で苦しんでいる人々も神によって愛されていることを感じるのである。絶望や不幸の中にいるときにこそ神は見出せるのだろうか。

結局、主人公は偶然にも罰金の代わりの労働をしたうえで、監獄から釈放され、再び逃亡を続ける。

警部から逃れるには、州境を越えて隣の州へ向かうしかないと決めた彼は厳しい山岳地帯を抜けて、プロテスタントのドイツ人兄妹に助けられる。その近くには、カトリックの教会がまだ残っている村があった。州境の向こうでは、迫害もそれほど厳しくなかった。主人公は、その村で告解を聞き、子供たちに洗礼をささげ、ミサを執り行うが、それは、昔の彼に戻る時間であった。

カトリックが大切にされていた古い時代、彼は教会の中で出世し、金を受け取り、酒を飲み、良い暮らしをするのが得意であったし、それを普通に考えていた。信者から金を受け取るのは教会のためだと考えていた。州境の町で、その時の彼に主人公は戻ってしまうのである。宗教が迫害を受ける場所で神を感じるのに、神が崇められている村では神父が本来の自分を見失い神が不在となるように感じられるのである。主人公はそのことにうすうす気づいているのだが、苦しい生活に戻ることは出来ないのである。

良い教会、そして良い暮らしがある大きな町を目指して旅立とうとするときに、再び混血児が現れて、同じく懸賞金をかけられている殺人者が死にかかっているから祈りをあげてほしいと頼む。神父にはそれが自分を捕らえようとする罠であることを見抜いていたが、混血児とともに瀕死の殺人者のもとに向かう。どうしてだろうか。彼には自分が死に向かっていることがわかっていたけど、行くべきであることもわかっていた。

果たして、そこには瀕死の殺人者がいたが、警部も待ち構えていた。主人公は捕らえられ、警察に連れていかれるのである。護送中に警部は主人公と会話して、神父が良い人間であることに気が付いた。人間の理性が、神の恩寵に気づくような瞬間である。しかし、警部は自分の信念を貫き、主人公を銃殺にする。

神父が銃殺される場面は、遠景で描写されるが、それは世の中の多くの出来事の中の一つでしかない。主人公が銃殺されたその日、その町には新しい神父が現れるところで物語は終わる。神の代理人は再生されたのだった。

絶望の中にいるときに、神の不在を人は言うが、そういうときにこそ神が人の心の中にいて、人々が幸福を感じるときに人の心の中に神が不在である。神が不在の時に神がいるという不思議さ。

「権力と栄光」 早川書房 グレアム・グリーン全集 グレアム・グリーン著 斎藤数衛訳

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