マルサス 「人口論」 人口の重荷

本著は、人口に関する原理に関して、マルサスによって1799年に著されており、時期からしてフランス革命の勃発とその後の社会的な混乱を見て、理想主義と現実のかい離、その結果として現れた混乱を考察してものであろう。

人間社会は、人口と言う重荷を背負っており、人口を考慮せずして社会の動静を理解することはできない。つまり、人口によって社会の発展も限界づけられており、限りある世界の資源の中で養える人口には限界があるとマルサスは説いている。マルサスの考えは以下のような道筋を取って展開される。

議論の出発点として、人口は、つねに人口を養えるだけの生活物資の水準におしとどめらるという原理を提出する。これは明白な真理であり、多くの論者が指摘していることでもあることを説明している。

次に、前提として以下の2点を挙げている。第一に、食糧は人間の生存にとって不可欠であること、第二に、男女間の性欲は必然であり、ほぼ現状のまま将来も存続することである。

そして、ここがマルサスの理論の中心的な部分であるが、人口は、何の抑制もなければ等比級数的に増加する一方、人間の生活物資の増え方は等差級数的であるということである。人類の増加が食糧の増加とつりあうレベルに保たれるのは、必然性という強力な[自然の]法則が人口増加のパワーを抑止するものとして常時機能してのみ可能となるという。

生活物質、とりわけ食糧は、結局のところ農産物であり、土地からの収量に等しい。農産物は、農地の面積か、面積当たりの収量が増えない限り増えることは無い。それは、新しい開墾地で耕作が始まるか、科学的な進歩で肥料や耕作方法の飛躍がないと難しいし、経験則として以下に科学技術が発達しても爆発的な収量の増加は見込めない。

ところが、非常に直接的な言い方であるが、マルサスは、人の性欲は留まることを知らず、ただ、食糧が無くなるまでは増え続けるという。しかも、人口の増え方は食糧の増え方よりも遥かに大きいので、必ずどこかで人口は限界に達すると言っている。

別の言い方をすれば、人口は食糧がなければ増えることができないが、食糧があれば人口はひたすら増加する。だから、いつも限界近くに人口は留まり、社会は余裕のない状態に置かれるのである。

マルサスは、人口増加の大きなパワーは、社会の中に貧困や悪徳を生み出すことによってしか抑制できないと主張している。貧困は、不平等社会であれば社会の最下層の者が被るものであり、最下層の者は悲惨な生活に耐え、食べるに苦労し、不健康に苦しみ、生きるのであるが、それは人口の重荷から来るのだという。逆に、平等社会であれば社会全体で貧困を被ることになり、場合によっては社会全体が全滅するような、過剰人口の重荷を全ての者が背負うのである。

悪徳と言っているのは、生活苦にあえぐ者が、食い扶持を減らすために嬰児殺しや老人に死を宣告するしきたりであったり、売春などの悪弊を指している。

マルサスは、こういう陰惨な結論を導く理論を喜んで提出しているわけではなく、こうした人口による苦しく困難な出来事が人生の大部分を占めていること、それらを生み出したと思われる物質的原因は永続的なもので根本的な解決策が見当たらないことに、マルサスは心を痛めている。

マルサスは、自分の人口論(原理)を過去や同時代の社会の中から事例を取り出して証明しようとしている。例えば、食糧が乏しい古代社会では、早婚はほとんど見当たらないのであるが、これは古代社会は大きな人口を支えられないので、自ずと人口増加を抑制する晩婚制が社会に取り入れられた結果だろうと見ている。

また、同時代のイングランドにも例を見つけている。

イングランドのような近代社会にあっても、下男、下女は独身を保っているが、彼らの収入では家族を支えられないからである。労働者も同様に独身を通すものが多い。

それは下流だけにとどまらず、上流でも下の方に位置する人々は、結婚による家族扶養の支出で、自分の社交的な支出が賄えなくなるのを嫌って、結婚を控えいるような紳士階級が見られる。中流に属するような、商人や農場経営者は、自分で満足に稼げるようになるまでは結婚しない慣例が固く守られており、これが晩婚を促している。

イングランドの人口は社会全体で停滞しており、余剰と見なされた人口は、捨て子や、身売りと言った悪徳の対象となった。

更に、イングランドの救貧法を取り上げている。救貧法は、一般から徴税した税金によって、下層の者に給付金を与えて生活を楽にさせようとするもので、設立の精神は立派なものであるが、もたらした結果は逆のものとなった。給付金をもらった者は、自分で働いて得ていた金額の数倍を働かずに手にした。彼らは、働かずに手にした金を酒場で使い、食糧には回さなかった。更に、悪いことに、給付金が社会に流通することで、食糧の価格がインフレを起こして値上がりしたので、給付金をもらわずに生活できていたその上の階層の者が食糧を買えずに貧困に苦しむようになった。つまり、給付金を与えられた者も、その上の階層も共に貧困に苦しむようになったのである。

人口論の立場から見ると、問題は食糧であり、社会の中で食糧の絶対量が増えないと、結局、国の中で相対的な下層、貧困者が食べられなくなるだけである。元の貧困者が仮に裕福になれば、その上にいた者が代わって下層に落ちて、貧困に苦しむことになる。つまり、金銭による救済は、問題を解決しない。

もしも、イングランドが階層化された身分社会でなく、平等な社会であれば、皆が平等に貧困に苦しむことになったであろう。貧困は、不平等社会であれば、下層の人々に降りかかる。平等な社会であれば、皆に平等に苦しみが降りかかるのである。

平等社会ではないが、過剰な人口を抱えた社会がどうなるかを、同時代の中国に見ている。中国では、宋や明などの時代に開墾が行われ、広大な耕作地が生み出され、そこに夥しい人口が生活していた。耕作地に比べて、つまり食糧に比べて人口が過剰となっているため、民衆全体が貧困に苦しみ、栄養を十分に摂取できない民衆からなる社会は、周期的に疫病に襲われていた。疫病の結果として人口が減ると、一人当たりの食糧が増えるので、そこで人口が爆発的に増え、その結果として疫病がまた流行るのである。こうした周期的な疫病、周期的な人口の振動を繰り返していた。

疫病に関していえば、同時代のドイツには多くの小国家が存在しており、それらの国家には人口動態(出生登録、埋葬登録)が同じような周期運動を見せている国があった。そこでも疫病が流行っていたのである。

治世が安定していて、新しい耕作地が順調に増えていった北アメリカ植民地は、25年で人口が倍増していた。恐らく、これが食糧が充分にある時の人口増加の速さであろう。新しい開墾地であれば、この人口増加を支えられるが、すでに耕作地がある場所では、食糧の増加はその速さでは無理である。そして、もはや、世界には大きな開墾可能な土地は残されていないのである。


ゴドウィンは、市民社会で見られる貧困や悪徳を社会制度のせいにしていたが、マルサスは反論している。政治制度、所有制度がなくなれば、貧困や悪徳をなくすことができるかもしれない。しかし、そうではない。社会の二つの基本法、財産の安全確保と結婚の制度一旦確立すると、そこから生活条件の不平等が生じるにちがいない。財産の分割が終わった後に生まれた者に、世界はもはや誰かの所有物であり、その社会は不平等社会でしかないのである。つまり、新しい土地が次々と提供されるような世界でない限り、必ず不平等社会になるのである。


マルサスの結論としては、土地から取れる食糧で養える限界まで、人口が増え続け、それ以上に増えようとすると飢饉や疫病によって人口は自然に減少せられ、ある限界のもとに落ち着くのであるが、その社会は人口を養える限界であり、社会の大部分は貧困に苦しむことになるのである。それはどうやっても解決しえない問題である、ということになる。


マルサスの理論には、人間を動物的に扱っており、精神的な存在であるという視点はない。そういう面からの反論はあるのであろうし、技術革新など技術的な反論もあるのかもしれないが、問題は姿を変えて再び現れてきて、結局のところ、今の社会の根本的な問題は人口論の問題なのではないかという気がする。我々人間は人口の重荷を背負って生きているのだと感じる。

「人口論」 光文社古典新訳文庫 マルサス著 斎藤悦則訳

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