安部公房 「デンドロカカリヤ」 意味の喪失

「デンドロカカイヤ」は、安部公房の書いた美しくも物悲しい散文詩だと思う。変身する青年の心の世界が、著者によるナレーションで詩的で寓話的に描かれている。


著者から見ると、現代社会に生きる人間は生きる意味を見つけられずに時間が流れるままに無為に毎日を過ごしているのだろうか。

生きる意味を見失っているから心の内面世界が外界と区別できなくなるので、著者が描写する主人公の周囲の風景がそのまま心の風景と重なり合っていく。


「分るだろう。誰だってそんな憶えがあるにちがいない。思わずあたりを見まわして、他の人もそんなことをするものかどうか、そっと確かめてみたりする。」

「なんと、植物になっているんだ!ぐにゃぐにゃした細い、緑褐色の、木とも草ともつかぬ変形。」


変形するというのは、今持っている何かが失われて植物になるのではない。今と同質の別の形になるということ。主人公と植物は、最早同質であるというのか。生きる意味を喪失するとは、突き詰めると植物のように生命を維持しているだけなのだろうか。人間であるとは何を意味するのだろうか。


「それから、あたりが真暗になった。その暗がりの中に、夜汽車の窓にうつったような、自分の顔が見えた。むろん錯覚さ。なんの錯覚かって、コモン君の顔は裏返しになっていたんだ。あわてて顔をはぎとり、もとに戻した。瞬間、すべてはもとどおりになっていた。」


主人公が植物になりかけた刹那、彼は心の風景を目にする。それは夜汽車の窓に映るような自分の顔である。何かのっぺりとした殺風景とも言える、自分以外が何も無い世界。人の心はもっとどろどろした醜いものではなかったのか。


何回か植物になりかけては元の姿に戻り、人間のままであったが、とうとう最終段階に達してしまった。


「そう、空を見上げていたんだ。するすると、天が眼の中へ流れ込む。重い天が、やがて全身に充満して、いやでも内臓は体の外部に押出されて行った。顔の上では、どこにいこうかとためらっているあやふやな腰つきの誰か…、見ればむろん自分にちがいない。暗闇にうつる自分の顔。地球がどろどろ鳴っていた。気持ちのよい飽和感の酔い、とうとう発作が始まったんだね。」


飽和感の向こうに、自分の意識は喪失し、主人公の精神と肉体は永遠の眠りに着く。


「ダンテによれば此処は第七獄の第二の円であり、自殺者が受ける罰だというのだが…。」


著者は西欧文化の深い堆積を糧に生きているから、著者のナレーションはギリシャやダンテの言葉に彩られるが、主人公はそんな文化には無関心に今の空気を呼吸し、彼の内面は単純至極で不幸や悲しみさえ感じられないほどである。彼はただ本能的に生の終わりを怖れているように感じられる。

自殺者の罰。現代人は考えることを停止して、自らを死に至らしめているというのだろうか?


「ほとんどすべての人に隠されているものが、コモン君にだけ露わになった…、それは別段特別なことではなかったかもしれぬ。必然の中を乞食姿で巡礼していた偶然が、たまたま彼の門を叩いたにすぎないかもしれぬ。」


この物語は、主人公に特別の出来事ではなくて、現代人なら誰でも同じだということらしい。うっかりしていると、顔が裏返って植物に変形してしまう。


それにしても、悲しさが感じられない人生とは、何と悲惨な世界だろうか。著者は人間を植物にして見せたが、生きる意味を失った人間は似たような存在になってはいないか。著者はそんなことを問いかけているのかもしれない。


「水中都市・デンドロカカリヤ」 新潮文庫 安部公房著

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