フレイザー 「金枝篇」 ネミの祭司と神殺し

イタリアの中部アリキアの町(現在のアリッチャ)から3マイルほど離れたアルバの山麓に、小さな森の湖ネミ、昔の人が「ディアナの鏡」と呼んだ湖、に聖所と聖なる木立とがあった。この古代イタリアの聖所に仕える祭司は、祭司であると同時に殺人者でもあった。ネミの祭司は前任者を殺して祭司に就いたのであるが、自分も祭司職を狙う者に殺される運命にあった。祭司を殺す者は「黄金の枝(金枝)」を折り取ることで、祭司と闘う権利を得られ、勝てば新しい祭司となった。


アリキアの木々の下に 
眠る鏡のように穏やかな湖 
その木々のほの暗い影の中で 
治世を司るのは恐ろしい祭司 
人殺しを殺した祭司であり 
彼もまた殺されることだろう 
    マコーリー

しかし、祭司になる者は人を殺さなければならない、祭司になった者は人に殺されなければならないという掟は、神事を司る者に相応しくない奇異なものに思われる。フレイザーは、次のように問いかける。祭司は何故前任者を殺さねばならないのか。殺す前に「黄金の枝」を折り取らねばならないのか。

ネミの祭司の掟に関して、古典古代ギリシャ・ローマに比較すべきものはみつからない。フレイザーは、古典古代ギリシャ・ローマに先立つ時代つまり先史アーリア人の原始宗教が謎を解く鍵と考えている。しかし、先史アーリア人の宗教は、ほとんど文献が残っていないのである。そこで、フレイザーは、ヨーロッパ農民の風習や迷信こそが、先史アーリア人の原始宗教を明らかにする証言であると考える。文学(文献)は思想を前進させるがその速度は速く数世代で大きな変化が生じる。これに比べて非常に穏やかな速度でしか変わらない口頭の言葉による思想(風習や迷信)は数千年の伝統を保ち続ける。また、本を読まない(18,19世紀ヨーロッパの)農民は、文字による思想の革命からの影響を被らずにいられる。

フレイザーは、ヨーロッパ農民だけでなく、世界各地の神話・伝説や宗教行事・儀式の記録を綿密に調べていく。先にも述べた通り民間の人々の生活様式は、長年容易に変化せず、過去の儀式の痕跡が多く残されているからである。調査範囲は、広範囲で、民俗学者が収集したオーストラリア、南太平洋の島々、アジア、アフリカ各地の習俗の記録に始まり、古典学者が研究した古代メソポタミア、古代エジプト、古代ギリシャなどの古代宗教にまで及ぶ。更に、ヨーロッパ各地の農民の習俗の記録も調べられる。(フレイザーが未開社会という言葉を使っているので、ここではそれをそのまま踏襲する。)


では一体、ネミの祭司は何であったのか。フレイザーは、次のように紐解いていく。古代文献や宗教儀式を例示しながら、古代社会では樹木崇拝が広く浸透していたことを示した上で、ネミの祭司は、「森の王」つまり樹木崇拝の対象である樹木霊(神)の化身であろうと仮説を立てる。

樹木崇拝とは何であるか。樹木霊とは樹木や穀物の生命を司るもので、古代人の生活を左右する重要な存在であったが、この樹木霊を崇拝することである。「森の王」は樹木霊が人間化した化身である。樹木や穀物の作況は古代社会全体の存亡を左右する重要事であったから、樹木霊は常に旺盛な生命力を維持することが求められた。樹木霊(神)の衰えは、樹木や穀物の衰えを意味した。

次に、神の衰えを防ぎ、常に神が生命力に溢れている状態を維持ための方法が考えだされた。神が旺盛な生命力を持っている状態で殺して、次の神を受け継ぐ、つまり神殺しという発想が生まれる。一般に古代世界では神も死ぬ運命にあり、神を殺すということに何ら無理はないのである。神殺しの時期も定まっていた。収穫の時期や種蒔きの時期あるいは、太陽が絶頂を迎えた夏至の時期である。

ネミの祭司は、「森の王」つまり樹木霊(神)の化身であり、神が衰えを見せる前に殺して次の神へ代えてしまう神殺しの対象であったとするのである。


では、何故「黄金の枝」を折り取らなければならなかったのか。

ヨーロッパではオークの木が神聖視された。そのオークの木に寄生するヤドリギは、オークが冬にかれてしまった時でも黄金色の葉を茂らせることから、オークの魂が宿っていると考えられた。魂の外在化(自分の大切な命を自分の体の外に隠しておき、命が壊されない限り体は不死身となるという考え方)は世界各国で見られる考え方であり、ヤドリギに関しても同様の考えが当てはまるのではないかとフレイザーは言う。

「黄金の枝」はヤドリギを象徴するもので、樹木霊の魂であり、樹木霊(神)を殺すためには外在化された魂を壊さなければならないのである。これが、「黄金の枝」が折り取られなければならない理由とされた。


金枝篇は、比較宗教学に関する著作である。樹木崇拝、神殺し、初子の献上、魂の外在化などの概念が社会や地域を超えて存在していることを膨大な資料によって例証していく。

神が殺される儀式は世界各地で広く行われていたことも、人間を生贄として儀式に献げることも、初子を神に献げたのちその献げ物を社会全体で食することも広く行われていたことが例証される。未開社会や古代社会に限らず、ヨーロッパの農民社会においてもごく最近まで類似の儀式や習俗が多く残っていることが示される。

神殺しは、キリスト教におけるキリストの死を連想させるかもしれないが、フレイザーはキリスト教については何も触れていない。しかし、そういう意図があったとしても不思議ではない。宗教の起源とは何なのか深く考えさせられる著作である。



初版「金枝篇」(上)(下) ちくま学芸文庫 J.G.フレイザー著 吉川信訳


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