魔の山 3 サナトリウムでの時間

目的地に到着した。

八時ちかかったが、日はまだくれていなかった。湖水が一つ絵のような遠景に見えた。その水面は灰色で、岸ぞいのエゾ松の森がまわりの山を黒々と這いあがって、ずっと上でそれがまばらになり、ついに消えて、霧のかかった裸の岩だけをのこしていた。小さな駅で停車した。窓外の呼び声でそれがダヴォス・ドルフの駅であることがわかった。(p18)

駅で待っていた従兄のヨーアヒムに声をかけられ、初めて目的地に着いたことを知った。駅からは馬車を雇って、サナトリウムへ向かった。

部屋は34号室であった。その部屋で療養をしていた女性患者が数日前に亡くなっていた。消毒のにおいも残る中、疲れた体を休めるハンス・カストルプであった。8月だというのに暖房が必要なほどに涼しかった。サナトリウムは、生と死が同居する空間であった。

身支度を整えるとレストランへ向かった。その席で、従兄弟たちの会話に時間の話が出てくる。

「しかし、ここでは時間はほんとうは早くたってしまうだろうがね」とハンス・カストルプはいった。
「早いともおそいとも、どっちともいえるよ」とヨーアヒムは答えた。「だいたい時間はたたないといいたいねまったく時間などといえるものではないよ、そして、生活でもないね、ーーそうだよ、生活などといえるもんか」とヨーアヒムは頭をふりふりいって、ふたたびコップをつかんだ。(p33)

サナトリウムの生活が精神へ及ぼす影響、それの一番大きなものはこの時間に対する感覚の麻痺であろうか。生活していて、日々の変化が精神によって認識されなくなってしまう。毎日がいつも同じ事の繰り返しにすぎず、日々の個性が失われてしまうのである。

そして、後になって語られるが、サナトリウムの生活は外界から切り離されているように一見すると感じられるが、実は外の世界の影響から逃れられない。


「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳




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