魔の山 2 時間

主人公ハンス・カストルプは、「夏のさかりに、生まれ故郷のハンブルグからグラウビュンデン州のダヴォス・プラッツにむかって旅だった。ある人を訪ねて三週間の予定の旅であった。」ダヴォスにあるサナトリウム「ベルクホーフ」で療養している従兄のヨーアヒムを見舞う為であったし、ハンス・カストルプ自身の養生のためでもあった。

旅に出かけたハンス・カストルプに起きる変化を暗示するように、旅が持つ時間的、空間的な力、それも強力な力を次のように書いている。

旅に出て二日もたつと、私たち人間は、とりわけ生活がまだ根をしっかりとおろしていない若いころには、私たちが日ごろ自分の仕事、利害、心配、見こみなどと呼んでいたすべてのもの、つまり、私たちの日常生活から、遠のいてしまうものである。それも、私たちが駅へ馬車を走らせながら考えたよりもずっと遠のけられてしまうもである。私たちと故郷との間に旋転し疾走しながらひろがってゆく空間は、一般に時間のみが持っていると信じられている力をあらわしてくる。つまり、空間も時間と同じように刻々と内的変化を生み、その変化は時間が生む変化にたいへん似ていて、しかも、ある意味ではそれにもまさる変化である。空間も同じように忘れさせる力を持っている。しかし、空間の忘れさせようは、人間をあらゆるきずなから解きはなち、自由な本然の姿におきかえるというやり方である。ほんとうに、空間は俗人をも、かたくなな俗物をも、一瞬に放浪児のような人間にかえてしまう。時間は過去を忘れさせる三途の川の水だといわれるが、旅の空気もそういう種類の飲みものであって、そのききめは時間の流れほどには徹底的でないにしても、それだけにいっそうてっとり早い。(上巻p15)

時間的な長さが日常の記憶を忘れさせてくれるように、空間的な長さも日常から我々の精神を引き離し、精神を変容させる。これからサナトリウムで数週間を過ごすハンス・カストルプが、日常から離れることによって精神状態が変容していく様子が物語に刻まれていく。

「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳




コメント

このブログの人気の投稿

フレイザー 「金枝篇」 ネミの祭司と神殺し

ヴォルテール 「カンディード」 自分の庭を耕すこと

安部公房 「デンドロカカリヤ」 意味の喪失