ベールキン物語 駅長 3

駅長の消息を聞かなくなって、わざわざ消息を確かめるために語り手が駅舎を訪れると、そこに駅長の姿はなく太った婦人が現れた。駅長のことを尋ねると、駅長は飲み過ぎが原因で一年前に死んでしまい、駅舎は麦酒醸造人のものとなっていた。

近くにいた子供に案内させて彼の墓まで歩いた。この上なく寂しい墓場であった。

それはむきだしの場所で、柵ひとつ、囲い一つなく、いちめんに木の十字架が立っているばかり、それに影を落とすただ一本の小さな樹もなかった。生まれてこの方、私はこんな侘びしい墓地を見たことがない。

子供に、他に誰か訪ねる者はないかと訊くと、きれいな奥さんがやって来たという。

「六頭立ての箱馬車で、小ちゃな坊ちゃん三人と、乳母と、真っ黒な狆を連れてやって来たっけが、駅長さんが死んだと聞くと、泣き出しちゃってね、坊ちゃんたちに『おとなにしてるんですよ、お母さんはお墓詣りをして来るから』って言ったよ。俺らが案内してやろうというと、奥さんは『いいのよ、道は知っているから』って言ったっけ。」

「俺らが遠くから見てるとね、あの人はここにぶっ倒れたなり、いつまでも起きあがらなかったっけ。そいから奥さんは村へ行って、坊ちゃんを呼んでね、お金をやったのさ。そいから行ってしまったっけが、俺らにゃ五コペイカ銀貨を呉れたよ。・・・本当にいい奥さんだったなあ。」

ドゥーニャが幸せに暮らしていること、ドゥーニャが心から父親のことを愛していたことが知れて、心が締め付けられるような感じがする良い情景である。

ところで、冒頭に出てくる「放蕩息子」の話と、駅長とドゥーニャの話が少し食い違っているのが気に掛かる。放蕩した娘が幸福になり、帰ってくると父親が亡くなっているのだから。

ここで、聖書の別のたとえ話を思い出す。100頭の羊を飼っている羊飼いが1頭の羊がいなくなったことを知り、1頭のことを探して夜遅くまで歩き回り、やっと見つけて大喜びをする話である。迷える羊のことに神がいかに心配し、迷える羊が救われることをいかに喜んでいるかを示すたとえである。

放蕩息子と迷える1頭の羊の話を絡めて、駅長の娘への愛情が描かれているような気がしている。娘が自ら進んで放蕩をしているのだと知った後でも、また、娘のことを罵っている時でも、あるいは、駅舎の中で力無く床に伏している時でも、いつも娘への愛情は強まることはあっても減ることや無くなることはなく、強く彼の心の中に有り続けた。


「スペードの女王・ベールキン物語」 岩波文庫 プーシキン著 神西清訳



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