魔の山 1 前書き

魔の山 トーマス・マン

ハンス・カストルプという青年が数週間の予定で訪れたサナトリウムで予定よりもずっと長い期間を過ごした出来事、それもカストルプ青年が何かをしたというより、彼がそこにいて周囲に起きたことを描いている。実際、前書きで次のように触れている。

私たちがこれから話そうとするハンス・カストルプの話---といっても、ハンス・カストルプを中心に話すのではなくて(というのは、読者もそのうちにわかるだろうが、ハンス・カストルプは好感は持てるが、単純な青年にすぎない)、たいへん話しがいがあるように感じられる話そのものを中心に話すのである。(前書き)
ハンス・カストルプのことを単純な青年と呼んでいるが、彼は決して鈍い青年ではない。これから登場してくる人文学者やイエズス会士などの優れた人々ほどの見識や判断力には届かないという意味での単純さであって、何かに偏りがないということでは信頼がおける人物である。実際、ハンス・カストルプは実に見事な判断や感性を示して読者を適当と思われる考え方へと導いてくれるのである。

著者は「時」のことを気にしていて、物語の中でも繰り返し「時」のことが扱われる。
---という言葉で、時という不思議な現象の問題性と特殊な二重性にひとまずかるく読者の注意を呼びさましておくことにしたい。(前書き)

トーマス・マンの文章は、緻密で密度が濃くて厳密である。それは彼自身もそのように意識して書いているのである。
私たちはこの話をくわしく話すことにしよう、精密に徹底的に。---なぜなら、ある話についやされる時間と空間とによって、その話が短く感じられたり、長く退屈に感じられたりすることが、かつてあったろうか。むしろ私たちは、くどすぎるわずらわしさをおそれずに、徹底的な話し方こそ、ほんとうにおもしろいのだという考え方に味方をするのである。(前書き)
トーマス・マンの緻密な文章の面白さを十分に楽しみながら、しかも、その文章で描き出そうとする意味を味わうのは幸せなことである。

「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳




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