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ランボウ 「地獄の季節」 最も深きところから

若きフランスの詩人ランボウによって詠まれた詩集「地獄の季節」。 地獄とは、ランボウ自らの心の遍歴を嘆いて言うのだろうか。酒が溢れる宴に明け暮れ、女に溺れる毎日を重ね、ついに歓びの時は過ぎ去った。いや、正しきものから逃げ去ったのかもしれない。後に残ったのは、悲惨や憎しみ。責め苦にあえぐ自分。 俺の奈落の手帖の目も当てられぬ五、六枚、では、貴方に見ていただくことにしようか。(p8) 地獄に堕ちた苦難と苦悩を綴るのだが、それは単なる人生の悲惨さを嘆いたものではない。全て醜いものや淫乱なものを並べ立てただけの混乱、混沌の世界とは明らかに違っている。キリスト教文化の只中に生を受けたランボウは、絶対的に正しきものの存在を認識していて、彼の精神世界には確立された秩序があり、自らがその秩序の中の最も深い底辺に堕ちているのを嘆いているのだ。絶対的な価値観は確固として存在し、その頂上からいかに離れた奈落に堕ちているかを認識し、そして呻き悲しむのである。 俺ははやこの世にはいないのだ。 --神論に戯れ言はない、地獄はいかにも下にある、--天は頭上に。--陶酔と悪夢、燃え上る塒(ねぐら)の眠り。(p19) 絶対的に正しいものがいます頂から最も隔絶された最も深きところ、それは人の心の最奥ではなかろうか。その最も深きところから上を見上げて詠うのである。彼の詠う詩は力強く響き渡る。 幸福な生活を送り平和に溺れて正しきものを忘れ果てている者たちよりも、地獄にいて嘆き悲しむ者の方が実は正しきものに近い存在ではないか、何かそういう逆説のような叫びが聞こえてくるようで、はっとさせられる。 「地獄の季節」 岩波文庫 ランボウ著 小林秀雄訳

エラスムス 「痴愚神礼讃」 愚かな者が真理を語る

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エラスムスは、15~16世紀にかけて活躍した人文主義者、神学者、司祭である。「ユートピア」を著したトマス・モアと終生の友として交流し、トマス・モアの「ユートピア」にも大きな影響を与えているという。また、同じく同時代の人であったマルチン・ルターとの間で論争を行ったことでも知られている。 本書に解説を記している宮下士郎氏によれば、人文主義とは、古代ギリシャ・ローマの研究を通じて、人間存在や社会を、神ではなく人間の視点から見つめなおす動きであるという。それは、神を無視することを意味するのではない。人間存在は神の被造物であり、人間を探求することは神の働きを知ることと通じるとされていた。そうであるから、エラスムスの持つ人文主義者と神学者、司祭という立場は矛盾しないのである。「汝自身を知れ」というソクラテスの言葉は人文主義者の立場を良く示す言葉だと言える。 「痴愚神礼讃」は、痴愚の女神が自らを褒め称える(礼讃)言葉を記したものである。痴愚女神は、愚かさの象徴であり、著者は愚かさの仮面を被り、世の中の人々の愚かさを滑稽味を持って嘲笑している。皮肉さと滑稽さを伴った風刺、それがギリシャ・ローマの古典知識を背景としたものとなっている。風刺の対象は、市井の人々に始まり、哲学者、法律学者、王侯貴族、キリスト教の僧侶に至るまで、様々な人々が嘲笑されている。読者は、丁寧に加えられた注釈を見て、優しくも軽妙に語られる辛辣な言葉を読み解くことができるのだから、すんなりと著者の後をついていくことであろう。 一見するとギリシャ・ローマ古典に依拠する知的な戯れにも思えてくるが、しかし、そういう見方では本書の本質を見失ってしまう。本書も最後に差し掛かる部分、65章あたりからの内容はパウロの言葉を扱っているのだが、痴愚を装いながらキリスト教の神髄を見事に語りきっている。 パウロはさらに一歩進めて、痴愚こそ救いに不可欠であると断じて、「あなたがたのうち、みずから知者だと思っている者は、知者となるためにおろかな者となりなさい」といっていますよ。(p224) 人間の善なる行為によってもいかなる罪も赦されない、ただ神への信仰によってのみ罪は赦される。そのことをエラスムスは痴愚神の口を借りて語っているのではなかろうか。愚かさ故に救われる、すぐには飲み込むことがで...

マルチン・ルター 「新約聖書への序言」

ルターが全生涯をかけて成し遂げたドイツ語訳聖書の序言であるが、ルターのキリスト教に対する神学観が極めて明瞭に端的に述べられていて非常に面白い。教会に関わる者は、普通であれば、非難や誤解を恐れて聖書中の福音書や書簡に序列などをつけたりはしないだろうが、ルターはそれを見事に歯切れよい口調できっぱりと述べているのである。 すなわち、新約聖書中で最も大切で、キリスト者が常に繰り返して読み自分の血肉となるまでにするべきものは、 「ヨハネによる福音書」、 「ヨハネの第一の手紙」、 パウロの手紙なかでも「ローマ人への手紙」と「ガラテヤ人への手紙」と「エペソ人への手紙」、 「ペテロの第一の手紙」 であるという。 「ローマ人への手紙」に対してルターが書いた序言は、実に素晴らしいものである。この序言だけを抜き出して読むだけでも、キリスト教の最も大切な核の部分に触れることができるのではないかと思う。それは、「ローマ人への手紙」において展開されるパウロの神学が素晴らしいものでキリスト教の根幹を成しているからであり、また、ルターの解釈が明快で歯切れよく核心をついた説明になっているからである。さらにルターの激しいまでにほとばしり出る情熱や神に対する誠心誠意を感じるのである。 聖パウロのローマ人へあたえたこの手紙は新約聖書のうちでもまことの主要部をなし、最も純真な福音であって、キリスト者がこれを一言一句暗記するどころではなく、たましいの日毎の糧として日常これに親しむに足りるだけの品位と価値とをそなえている。 ルターの序言に触発されて「ローマ人への手紙」にだけでも触れてみるのは良いことだと思う。理路整然として壮大な建築物を思わせるような神学が築かれているのが感じられるであろう。 ルターの考え方や解釈が、キリスト教世界で必ずしも正しいと認められているわけではないだろうが、何が大切なことで、それをどう考えるべきなのかということを教えてくれている。 「キリスト者の自由・聖書への序言」 岩波文庫 マルチン・ルター著 石原謙訳

マルチン・ルター 「キリスト者の自由」

宗教改革で有名なマルチン・ルターの著作。短い論文の中にルターのキリスト教神学に対する真髄が強い熱情でもって語られている。全身全霊を言葉に込めて書き上げている。その口調に触れるだけでも、彼の人となりを推し量ることができる。 キリスト者の自由を語るときに、ルターは次の2つの矛盾するように見える命題を掲げる。 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。 人間は、「霊的な」ものと「身体的」なものという2つの性質を持っている。たましいの面から見ると霊的な新しい「内的な人」と呼ばれるし、血肉の面から見ると身体的な古い「外的な人」と言われる。 この「霊的な内的な人」こそが、義しい自由なキリスト者なのである。「内的な」ものが義しく自由であるのだが、それは「外的な」ものが関与して義しく自由なものとなったのではない。では何によって義しく自由となるのか、それは福音すなわちキリストについて説教された神の言によってであるとルターは言う。 「わたしは生命でありよみがえりである。わたしを信ずるものはとこしえに生きる。」(ヨハネによる福音書第11章) 「わたしは道であり、真理であり、生命である」(ヨハネによる福音書第14章) では、神の言はどこにあるのか、それは聖書の中で語られるキリストの説教であるとルターは言う。 「義とされたキリスト者はただその信仰によって生きる」(パウロ ローマ人への手紙第1章) さらに聖パウロがいうように、神の言と信仰により、「霊的な内的な人」はあらゆることから自由とされる。 神の言と信仰によって、キリスト者が義しく自由となっているとしたら、何故その上に善行を重ねていく必要があるのかという疑問が出てくる。当然出てくるこの疑問(躓き)にルターはルターは答える。 否、愛する人よ、そうではない。もしあなた方が単に内なる人であって、全然霊的且つ内的になったとしたらそうであるかも知れないが、それは終末の日に至るまではむずかしいであろう。(p32) 我々人間は、神から祝福された「霊的で内的な」部分を持っているが、「身体的で外的な」部分を背負っている限り、本当の完成には到...

マルクス、エンゲルス 「共産党宣言」

マルクスとエンゲルスによるプロレタリアートによる共産主義の宣言。 階級闘争という歴史観を通じて、当時の経済社会の分析がなされ、ブルジョア階級による社会支配の問題が明らかにされる。ブルジョアによる資本主義の分析は、簡単に述べられているだけで一端が垣間見られるばかりであるが、それでもその洞察力の鋭さには驚かされる。現代の経済状況を振り返るとき、マルクス、エンゲルスの言っていることがあちらこちらに現れているように思う。 近代工業による経済活動が活発になるにつれ封建社会の枠組みが崩されていき、封建的な支配者階級は没落し押しのけられる。代わってブルジョア階級が伸張していく。ブルジョア階級によって経済的な社会支配のみならず、政治的な社会支配までもが勝ち取られていく。結果として、社会は資本を持つブルジョア階級と労働者からなるプロレタリアート階級に分断される。 「ブルジョア階級は、すべての生産用具の急速な改良によって、無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも、文明のなかへ引きいれる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、未開人のどんなに頑固な異国人嫌いも降伏をよぎなくされる。」 ブルジョア階級による社会では、繰り返し起きる恐慌という疫病がはびこる。過剰生産が起こり、社会全体の生産手段が破壊されたようになる。社会が必要とする以上の発達を遂げた大資本による生産活動が、行き場を無くしてしまうためである。これを克服するには、新しい市場の開拓と古い市場の徹底的な搾取が必要とされる。しかし、根本的な原因が解決されたわけではなく、より強大な恐慌が準備されていくのである。 このブルジョア社会の進行、深化に伴い、封建社会で中産階級にあった小工業者、商人、農民等はプロレタリアート階級に次々と転落する。ある者は自身の持つ小資本が大資本に競争に勝てなかったからであり、ある者はそれまで強みとして有してきた技能・技術が技術革新により陳腐化されて競争に勝てなくなったからである。こうして、プロレタリアート階級は、ブルジョア階級によって打ち負かされた者を吸収して、その数が膨張していく。プロレタリアート階級は搾取され、飢えずに食べていける最低限の賃金以外は支払われず、ブルジョア階級の奴僕と...

チェーホフ 「桜の園」 わたしの命、わたしの青春、わたしの幸せ

「チェーホフ最後の、そして最も愛されてきた劇曲」。郷愁を帯びた感傷的なテーマを持ち、そのテーマを明るく描く喜劇的な会話、劇中には知性的な雰囲気が醸し出され、味わい深い戯曲になっていると思う。大切な様々なものが詰まっていて、少しずつ色々な気持ちを味あわせてくれる、何回でも読み直してみたい作品。 主人公のラネーフスカヤ夫人はロシア貴族の出自であったが、平民の弁護士と結婚し、夫に死に別れると愛人とパリへ出奔してしまっていた。手元に最後に残った財産、「桜の園」、を処分するために故郷へと戻ってきたのだった。そこには、兄ガーエフ、娘アーニャ、養女ワーリャ、老従僕フィールス等が待っていた。 時は、ロシアで農奴解放令が発布され、時代が大きくうねり社会が激しく変貌している頃である。農奴からの年貢で生計をなしていたロシア貴族たちは、それまで拠り所としてきた基盤を失いあえいでいる。大土地を所有しているとはいえ、土地を経営する才覚無くしては土地の所有も意味が無く、次第に土地を切り売りして生活費を工面し、土地は人手へと移っていくばかりであった。ラネーフスカヤ夫人も兄のガーエフにも経営能力は無に等しく、彼らにあるのはただ血筋の良さ、人の良さだけであったから、最後に残った「桜の園」を保全することはできない。 劇中には、古き良き時代への郷愁と惜別の感情が漂う中で、新しい時代の足音が遠くの方から聞こえてくる。ラネーフスカヤ夫人の家に、代々農奴となってきたが、親の代に解放されて自由民となったロパーヒンは、学問は無いが実業家として財を成している。アーニャと恋仲にある大学生トロフィーモフの発言からは共産主義的なものが感じられ、新しい世の中を自ら作り出そうと考えているのがわかる。やがて来るロシア革命を彷彿とさせる。第二幕では、遠くの方から炭鉱の爆発音がかすかに聞こえてくる。ドンバス炭田であろうか、すでに近代重工業が始まっているのである。 「桜の園」と、それに隣接する幼年時代の子供部屋こそが、ラネーフスカヤ夫人と兄ガーエフにとって最も大切なものの象徴であり、しかも心の拠り所でもあった。第四幕で、故郷を離れるために旅立つラネーフスカヤと兄ガーエフは、最後に子供部屋に残り、抱き合いながら涙を流す。 ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい桜の園!わたしの命、わたしの青...

トマス・モア 「ユートピア」 自由な精神と自己規律

船乗りラファエル・ヒスロディによって語られたユートピアは、自由な精神と自己規律でもって正しく生きている人々の国であった。 ユートピアとは、ラテン語を使ったトマス・モアの造語で、どこにも無い国という意味だそうである。1500年前後のヨーロッパの実情を見て危機感を抱いていたトマス・モアが、理想の国として描いたものであった。少ない法律で国が円滑に運営される国、徳が非常に重んじられている国、物が共有されているためにあらゆる人が物を豊富に有している国、それがユートピアであった。現実を直視したときに、問題の根源を洞察し、財産の私有が認められ金銭が絶大な勢力・権力を振るうようなところには、正しい治世と社会的な繁栄はありえないという意見に傾いていたのであろう。 都市は国中に均等に散らばって存在し、都市間はわざと間隔が開けられている。それは、農村部を配置し、自給が可能なようにと配慮されているのであろう。 農村部の農場に、都市部から人が2年ごとに交代で集められ、農耕が営まれている。これは旧ソ連時代の集団農場を想起されるが、旧ソ連の指導者たちがユートピアをモデルにしていたとしても不思議なことではないだろう。 農業は効率的に営まれ、農産物は豊かに稔り、共有財産制ということもあり人々は豊かな生活を保障されている。農業は食料を得るためという意味よりも、人間の徳を高めたり健康を増進したりするために行われている。農業のほかにも手工業などの技能が尊ばれているが、本人の性向が向けば、学問を修養することも強く奨励されている。精神生活を充足することこそが人生を充実させて生きることだと考えられている。 政治は共和制である。つまり、選挙によって選ばれた首長によって治世が行われている。30の家族の長である家族長と300の家族の長である主族長が選出され、さらに市長が4人の候補者から選挙で選ばれる。市長は、弾劾を受けない限りは終身制である。市長の下で治世が行われる。ユートピアには54の都市があり、各市長がアモーロート市と呼ばれる都市に集まり、国全体の治世に関する議論を行う。 ユートピアは島国であるが、他国との貿易によって莫大な利益を上げている。しかし、ユートピア人は財産の私有制を取っていないため、特定の個人に財が集中することは無く、またそういう野心を抱く...