ランボウ 「地獄の季節」 最も深きところから

若きフランスの詩人ランボウによって詠まれた詩集「地獄の季節」。

地獄とは、ランボウ自らの心の遍歴を嘆いて言うのだろうか。酒が溢れる宴に明け暮れ、女に溺れる毎日を重ね、ついに歓びの時は過ぎ去った。いや、正しきものから逃げ去ったのかもしれない。後に残ったのは、悲惨や憎しみ。責め苦にあえぐ自分。

俺の奈落の手帖の目も当てられぬ五、六枚、では、貴方に見ていただくことにしようか。(p8)

地獄に堕ちた苦難と苦悩を綴るのだが、それは単なる人生の悲惨さを嘆いたものではない。全て醜いものや淫乱なものを並べ立てただけの混乱、混沌の世界とは明らかに違っている。キリスト教文化の只中に生を受けたランボウは、絶対的に正しきものの存在を認識していて、彼の精神世界には確立された秩序があり、自らがその秩序の中の最も深い底辺に堕ちているのを嘆いているのだ。絶対的な価値観は確固として存在し、その頂上からいかに離れた奈落に堕ちているかを認識し、そして呻き悲しむのである。

俺ははやこの世にはいないのだ。 --神論に戯れ言はない、地獄はいかにも下にある、--天は頭上に。--陶酔と悪夢、燃え上る塒(ねぐら)の眠り。(p19)

絶対的に正しいものがいます頂から最も隔絶された最も深きところ、それは人の心の最奥ではなかろうか。その最も深きところから上を見上げて詠うのである。彼の詠う詩は力強く響き渡る。

幸福な生活を送り平和に溺れて正しきものを忘れ果てている者たちよりも、地獄にいて嘆き悲しむ者の方が実は正しきものに近い存在ではないか、何かそういう逆説のような叫びが聞こえてくるようで、はっとさせられる。


「地獄の季節」 岩波文庫 ランボウ著 小林秀雄訳



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