マルチン・ルター 「キリスト者の自由」

宗教改革で有名なマルチン・ルターの著作。短い論文の中にルターのキリスト教神学に対する真髄が強い熱情でもって語られている。全身全霊を言葉に込めて書き上げている。その口調に触れるだけでも、彼の人となりを推し量ることができる。

キリスト者の自由を語るときに、ルターは次の2つの矛盾するように見える命題を掲げる。
キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない

キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。
人間は、「霊的な」ものと「身体的」なものという2つの性質を持っている。たましいの面から見ると霊的な新しい「内的な人」と呼ばれるし、血肉の面から見ると身体的な古い「外的な人」と言われる。

この「霊的な内的な人」こそが、義しい自由なキリスト者なのである。「内的な」ものが義しく自由であるのだが、それは「外的な」ものが関与して義しく自由なものとなったのではない。では何によって義しく自由となるのか、それは福音すなわちキリストについて説教された神の言によってであるとルターは言う。
「わたしは生命でありよみがえりである。わたしを信ずるものはとこしえに生きる。」(ヨハネによる福音書第11章)
「わたしは道であり、真理であり、生命である」(ヨハネによる福音書第14章)
では、神の言はどこにあるのか、それは聖書の中で語られるキリストの説教であるとルターは言う。
「義とされたキリスト者はただその信仰によって生きる」(パウロ ローマ人への手紙第1章)
さらに聖パウロがいうように、神の言と信仰により、「霊的な内的な人」はあらゆることから自由とされる。

神の言と信仰によって、キリスト者が義しく自由となっているとしたら、何故その上に善行を重ねていく必要があるのかという疑問が出てくる。当然出てくるこの疑問(躓き)にルターはルターは答える。
否、愛する人よ、そうではない。もしあなた方が単に内なる人であって、全然霊的且つ内的になったとしたらそうであるかも知れないが、それは終末の日に至るまではむずかしいであろう。(p32)
我々人間は、神から祝福された「霊的で内的な」部分を持っているが、「身体的で外的な」部分を背負っている限り、本当の完成には到達していないのである。従って、「外的な」部分で我々は従属しており、僕としてあらゆることを行って生きていくのである。しかし、非常に難しいのであるが、「外的な」善行を行ったことによって「内的な」ものは何ら影響を受けず、義しくも自由ともならない。ただ、神の言と信仰のみがそうさせるのである。

本当に大切なものは何なのかということを考えるときに、ルターの言葉が道を照らしてくれるような気がする。

「キリスト者の自由・聖書への序言」 岩波文庫 マルチン・ルター著 石原謙訳



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