スタンダール 「赤と黒」 5 神学生

ジュリアンは、レナール夫人との恋愛がある範囲の人たちに知れるところとなりヴェリエールを去らざるをえなくなる。シェラン氏の計らいでブザンソンにある神学校で学ぶことになる。神学校にいる神学生というのが大多数は農民の出身で、知的精神など少しも垣間見られず、ジュリアンにとっては何の興味もわかない連中であった。

ジュリアンが、彼らの鈍重なトロンとした眼差しから察するのは、食後の満足された生理的欲望か、でなければ、食前の意地ぎたない食欲の楽しみ以外に何もない。ジュリアンが、その中にあって頭角を現そうと決心した、周囲の連中というのは、ざっとこういう連中である。(第26章)

このような者が神学校にいて将来聖職者になっていくのかと思うと、少なからず驚かされる。ところが、これらの神学生の方がジュリアンよりも優れている面があったのである。

実際のところ、彼の日常生活の目ぼしい行為一々賢明にはこんであったのだが、ごく些細な点に関しては、どうも注意が足りなかった。ところが、神学校のしたたかな連中ときては、ただその細かい点をしか見ないのである。だから仲間のあいだでも、彼のことをすでに「傲」と評判していた。何でもない、ごく」些細な行為をやる度に、彼の本性が出たがるのであった。(第26章)

仲間に言わせると、ジュリアンは、「権威」とか模範とかに、盲目的に従おうとはせず、「自分で考え」「自分で判断する」というとんでもない悪癖にそまっている、というのだ。(第26章)

ただ盲目的に教えに従うことが徳とされ、自分で考えてはならないのであった。

数ヶ月のあいだ、一刻もおろそかにしないで努力してみたけれども、やはりまだジュリアンには、「考える」態度が残っているのだった。彼の目の動かし方とか、口元の表情には、どんなことでもやすやすと信じ、たとえ殉教によってでもいっさいを忍ぼうという、絶対的な信仰が出ていないのだ。ジュリアンは、こういう点で、ほかの最も粗野な百姓たちに優位をしめられていることが、腹立たしかった。彼らに「考える」態度のないのは、むりもないことだ。(第26章)








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