ローレンス・レッシグ 「フリー・カルチャー」

アメリカの法学者ローレンス・レッシグが書いた「フリー・カルチャー」は、著作権やそれに関する法律は何を目的に作られたのかということを根本から考え直し、現在の行き過ぎた著作権保護の実態に再考を促している。

フリーとは何か。フリーというと、金銭的にただであることを思い浮かべる人もあるかもしれないかが、ここで問われているのは、自由に意見を述べられること、自由に作品を作り発表できること、そういう意味でのフリーである。そして、この自由な意見を主張し、自由に作品を作り発表するという権利が保障されることで、自由な政治制度の基盤は提供されるし、豊かな文化創造の基盤が提供される。著作権はそのような重要な役割を担っているのである。


財産としての著作権を保護するのは良いけれども、過度の保護は、文化の創造性の力を奪ってしまうのではと言っている。我々の文化の歴史を見れば、古い作品を下敷きにして、新しいアイディアが付加されて新しい作品が創造されていることがわかるし、こうした過程を通じて文化は、誰かに搾取されるのではなく、全体として豊かな稔りを文化全体で享受している。つまり、古い作品をいつまでも誰かの財産として守り続けると、古い作品に新しいものを加えて次から次へと実り豊かに創造されていくはずの文化活動が阻害されるのではないかというのである。


レッシグは、著作権による規制の様子を法、規範(社会規範)、市場、アーキテクチャ(技術)の要素で説明を試みている。4つの要素はそれぞれ独立なものではなく、互いに影響を与えている。その中でも法律の影響力は大きい。また、時代の変化に伴い環境は変化するし、それぞれの要素のバランスも変わる。特に時代による変化が大きいのがアーキテクチャすなわち技術である。活版印刷技術や産業革命によって知的財産に影響を与える技術が登場してきた。例えば、活版印刷技術はその代表例であろう。時代によって4つの要素のバランスが崩れた時に、それを調整するのが政治の役割である。

財産は守るべきである。しかし、財産とは一種の独占権であり、著作物のようなものに永続的な独占権を与えるのは問題がある。独占権というものは社会の公正さ、社会の健全な発展に対して害をなす可能性がある権利だからである。だれかの独占権を守るために、守る必要がなく、また社会全体で共有することで、社会全体が利益を受けるものまでが、社会の利用から排除されてしまう。


著作権が始まる18世紀頃のイギリスの話が、著作権を考える原点となるだろう。シェイクスピアの戯曲「ロメオとジュリエット」の出版権(当時の著作権)は、イングランドの業者が独占していたが、国外(スコットランド)で印刷してイングランドへ輸出する業者との間で訴訟が起こった。イングランドの独占業者から見れば、表面的には商業的で個人的な争いである。しかし、社会全体の利益や文化的な発展を考える立場から言えば、文化を一業者が永遠に独占していては文化創造に悪影響を及ぼすのではないか、という非常に重要な訴訟であった。そもそも自由主義の国イングランドは独占を嫌う伝統があるのだが、イングランドの為政者達は社会全体へ悪影響を及ぼす独占権へ懐疑の目を向け、著作権の独占には制限がかけられ、以降「ロメオとジュリエット」はパブリックドメインへと入り、人々が共通に自由に使うことができる財産となった。


身近なところで、日本の漫画同人誌の事例も取り上げられる。これは文化創造という意味で象徴的でわかりやすい事例であると思う。漫画同人誌は、プロの漫画家が描いた作品をアマが模倣して、新しいストーリや新しいキャラクタを加えることで、新しい作品を作り出していく。プロの絵を模写する過程で、アマチュアが技術を学ぶ場になっていたり、自分の創作を試して発表する場でもある。作家と作品の両方を育成する場であり、漫画文化全体が発展する基盤を提供しており、こうして漫画文化の裾野が広がり、文化の深みや豊かさが増していく。(同人誌は古くない作品も使っているので、今のアメリカの状況だと著作権法違反でできないようなことであるけど、何故か日本ではできている。それは弁護士の数が足りずに訴訟にならないからかもしれない。しかし、そうであれば、それは良い一面であると思う。)こうして、同人誌文化という環境系は、豊かな創造性が生まれる環境を作り出していて、プロの漫画家も広い裾野のアマチュア漫画家も読者も、全てが利益を受けている。


では、レッシグは何を目指すべだと言っているのだろう。

海賊版によって著作物の財産権が侵害されるのは問題であり、それを認めているわけではない。最近の著作権の動きを見ると、著作権の期間が期限が切れる直前になると延長されることが続いており、文化創造という意味で見ると、著作権の永続化が深刻な問題となってきている。ほんの一部の商業的な価値を持つ著作物、それは映画であったり音楽であったりするが、それ以外の大多数の著作物は商業的な価値を失い誰も使われないまま置かれている状況である。著作権が永続化することで、商業的な価値のないものまで、著作権が永続化するため、それらを使って新しい価値を作り出すことができない状況になっている。

レッシグは、こうした使えずに放置される著作物をパブリックドメインとして社会全体で使って新しい文化価値を創造できるようにするべきだと言っている。


「フリー・カルチャー」 ローレンス・レッシグ著 山形浩生訳、守岡桜訳












コメント

このブログの人気の投稿

フレイザー 「金枝篇」 ネミの祭司と神殺し

ヴォルテール 「カンディード」 自分の庭を耕すこと

安部公房 「デンドロカカリヤ」 意味の喪失