ピランデッロ 「月を見つけたチャウラ ピランデッロ短編集」 生への気づき

イタリアの作家・劇作家ピランデッロの短編集。市井の人々の生活を穏やかに描いている。一つ一つの短い物語には、炭鉱夫、農民、法律家、修道士など様々な人の生き様が書かれている。

この短編集に収められている作品には、死や狂気が扱われているが、死や狂気は「生への気づき」の契機であったり裏返しであったりすると思う。


表題になっているチャウラは、炭鉱で働く少し知恵遅れの青年、あまり幸福に暮らしているとは言えない人物で、夜をひどく怖がっている。彼は炭鉱夫なので暗闇が怖いわけではなく、夜の世界が怖いのである。暗闇と夜は違う、夜は暗いだけでなく、チャウラの理解を超えた力が存在する世界なのだろう。そのようなチャウラは、ある夜炭鉱の作業をする羽目に陥ってしまった。夜が恐ろしくてたまらないチャウラは、炭鉱から夜の地上へ出るのが怖い。夜の世界には何か怖いものが待っているような気がするのである。

しかし、チャウラが出口から地上に出て見ると夜空には満月がかかっていて、彼は満月に見とれてしまう。もちろんチャウラはそれまでも満月の事は知っていたのだけれど、その日に満月を見て驚いたのである。満月の存在感、美しさ、充実感、それらに今までどうして気づかなかったのかということに驚いたとき、それはチャウラが自分が生きているということに初めて気付いた瞬間であった。「生への気づき」は、医学的に生きているという意味ではなく、人間の根源的・哲学的な意味での「生への気づき」ともいうべきものである。


生活していくことだけに必死であったり、出世や世渡りに没頭したり、毎日の生活に自己満足して生きている限り、「生への気づき」に至るのは困難なのだろう。しかし、何かの契機で、例えば不死の病を宣告された時、世界は全く異なった世界に変化し、自分の生を見つめ直すだろう。そのようなときに「生への気づき」がもたらされるのである。「貼りついた死」では、死を宣告された人の苦しみ足搔く狂気のようなものが描かれている。

感受性の高い人、深く思索する人は、自ら「生への気づき」に至る。「生への気づき」の中で、信仰が揺らいでしまい、還俗(げんぞく)した元修道士の物語「使徒書簡朗誦係」は、もの悲しくも心に響く。世界に溢れる生と、人の生の危うさや不安に気づいた彼は、自分の身をどう処していいのかわからなくなった。


「木々」では、経済的に破綻した男マッテオが、自死を決意して自ら墓場に赴く様子が書かれている。自ら墓場に行くのは、残された家族が自分の葬儀に少しでもお金を遣わなくて済むようにという非常に打算的で現実的な理由からであったが、いざ墓場へと歩き出してみると自死を決意した心には世界が変化して見えたのだった。

木々……おお、なんという驚き!木はこんな姿をしていたのか。これが木だというのか。 
(中略) 
生きている者たちは、最後の最後になって、ふたたび永遠に空気を味わいなおすという行為がどんなものか、知らないのだから。それはいまここにある、震えるほど強烈な永遠だった!

死を決意して、死の間際になって「生への気づき」があり、初めて世界を真直ぐにそのままの姿で見ることができるようになった。安楽に暮らすことだけに心を奪われている者や毎日の仕事に没頭している者は生に溺れている状態であり、生に気づいていないし、世界を真に見てもいない。


本書は、「生への気づき」を教えてくれる佳作であると思う。ピランデッロの登場人物に対する暖かい眼差しと、人生という現実に対する冷めた諦めの感情が織り交ぜになって、甘くも苦い複雑な味わいの作品集になっている。


「月を見つけたピランデッロ ピランデッロ短編集」 光文社古典新訳文庫 ピランデッロ著 関口英子訳





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