チェスタトン 「木曜日だった男」 

ある日の夕暮れ時、それはこの世の終わりが来たような夕焼けであった、ロンドンのサフラン・パークでガブリエル・サイムはルシアン・グレゴリーと詩的な会話をしていた。グレゴリーには誰にも明かされなかった秘密があって、サイムは誰にも言わない約束の下、その秘密を聞くことになった。グレゴリーは無政府主義者であり、彼の所属する無政府主義者組織の幹部会は、曜日で呼ばれるメンバーで構成されていたが、「木曜日」と呼ばれる人物が亡くなった。欠員となった「木曜日」の新任者をこれから決めるのだという。無政府主義者達は秘密裏に武器を準備し社会を暴力で覆そうとしている。サイムは、その場に立ち会うことになり、サイムの新しい冒険が始まった。


荒唐無稽ともファンタジーとも言えるような冒険活劇で、次から次に新しい事実が現れては状況が一転する。息をつかせぬ展開に身を任せると、一気に巻末まで読み進められる。

しかし、物語の中央は冒険活劇であるが、冒頭と終わりの部分は詩的で思想的な雰囲気に満ちていて、何かを暗示している。一通り読み終わった後に、冒頭に置かれた友人ベントリーに宛てた詩を読む時、著者の心の底の感情が微妙に伝わってくるようである。

エドマンド・クレヒュー・ベントリーに 
雲が人々の心にかかり、空は泣いていた。 
そう、魂にいやらしい雲がかかっていた――僕らが二人とも少年だった頃には。 
科学は非在を宣言し、芸術は頽廃を称め賛え、 
(中略) 
これは今は昔語りとなった恐怖の物語、空っぽになった地獄の物語だ。 
それが語る真実を君以外の誰も理解するまい―― 
いかなる恥辱の巨神が人々を脅かし、だが圧しつぶし、 
いかなる途方もない悪魔が星々を隠し、だがピストルの閃光に倒れたか、 
追うにはあまりにも明白で、耐えるにはあまりにも恐ろしい疑問―― 
ああ、それを君以外の誰に理解できよう。そうとも、誰に理解できよう。 
僕らはああした疑問を語り合いながら、夜通し歩き、 
朝日は頭に閃くよりも先に、街路にさした。 
僕らは今二人の間で、神の平和にかけて、真実を語ることができる。 
そうだ、根を下ろすことには力があり、年をとることにも良さがある。 
僕らはやっとあたりまえのものを見つけた――そして結婚と信条を。 
だから、僕は今安心してこれを書き、君も安心して読むことができる。 
G.K.C.

ベントリーは、著者チェスタトンの幼いころからの友人である。チェスタトンの幼少や青春の暗黒の時代に心の支えとなってくれた友人らしい。そうして見ると、この冒険活劇は、チェスタトンの青春時代を象徴的に表現したものに見えてくる。無政府主義者が何を意味するのか解らないが、少年時代に何か悪の道に誘われたのを暗示しているのかもしれない。読者にとって物語は荒唐無稽でファンタジーにも見える明るい内容であるが、物語中の登場人物たちにとっては暗く苦しく恐怖の連続である。物語を書いている時点の著者には滑稽にすら見えるものでも、青春時代の当時の著者には深刻で恐怖で苦しい出来事の連続であったのかもしれない。恐怖におののきながらも、薄暗い青春の道を信頼できる友と歩む青年が、また、青春時代の自分を暖かい目で見守る年老いた著者が、見えてくるのである。


「木曜日だった男  一つの悪夢」 チェスタトン著 南條竹則訳




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