マイケル・サンデル 「これからの正義の話をしよう」 5 美徳を求める

カントの考えは強力で堅固であるが、サンデルは満足していない。それは、余りにも理想的で、人間が直面する現実との乖離があるということではないか。

カントとロールズの哲学は、良い生の定義は人によって違うという現実を前に、中立的な立場から、正義と権利のよりどころを見つけようとする大胆な試みである。

中立的な立場での正義、と改めて問われるとき、果たして事の大きさに気づかされる。あらゆる人に共通に認められるような正義こそが正しいとすれば、ある人やある文化で尊ばれる美徳のような個別のことは無視されるのではないか。この問いに答えるために、アリストテレスの考えが登場する。

アリストテレスにとって、正義とは人びとに自分に値するものを与えること、一人ひとりにふさわしいものを与えることを意味する。

ふさわしいものは何かというと、それは与えられるものによって決まる。笛の例が持ち出される。最も良い笛をもらうべき人は、笛を最も上手に演奏できる人である。つまり笛によってそれを与えられるべき美徳が決まるのである。

家柄のよさや美しさは笛を吹く能力よりも大きな善かもしれない。全体的に見れば、そうした善を持つ人がそれらの資質において笛吹きに勝る度合いは、笛吹きが演奏で彼らに勝る度合いよりも大きいかもしれない。だが、それでも、笛吹きこそが彼らよりよい笛を手にするべきという事実は変わらない。

この説明は、笛吹きの能力と家柄という全く異なる種類のものを比べているのではなく、笛を配るにあたり考慮すべきは、笛によって決まる美徳、つまり家柄ではなく笛吹きの能力であるということである。

アリストテレスが考える、最もよい笛を最も笛吹きの能力のあるものへ配る理由は、そうすることで素晴らしい笛の演奏が生まれて人々が幸せになるからではない。笛は、うまく演奏されるために存在しているから、というのがその理由である。

笛の目的は優れた音楽を生みだすことだ。この目的を最もうまく実現できる人が、最も良い笛を持つべきなのである。

ヴァイオリンの競売の例が出される。ストラディヴァリウスのヴァイオリンが売りに出され、富豪のコレクターが、有名なヴァイオリニストに競り勝ってヴァイオリンを手に入れ、それを居間に飾ったとする。この結果に対してさまざまな反応があるだろう。その中には、この競売は不公正だは言わないが、競売の結果は不適切だという理由で、憤慨するというものもあるだろう。この意見こそは、アリストテレスの正義と意見を共にするものだといえる。

笛の議論は面白いが、これが正義や政治とどう係わり合いが出るのかというと、アリストテレスは政治の目的を次のように考えていた。

善き市民を育成し、善き人格を養成することなのだ。

アリストテレスにとって、政治はもっと高い目標のためにある。善く生きる術を学ぶためにあるのだ。政治の目的は、まさに、人びとが人間に特有の能力と美徳を養えるようにすることだ。共通善について熟考し、実践的判断力を身につけ、自治に参加し、コミュニティ全体の運命に関心を持てるようにすることだ。

この政治の目的から、政治家に誰がふさわしいかが導き出される。それは、最も裕福な人でも多数派でもなく、共通善を熟考し市民として最高の道徳を持つような人ということになる。

幸福とは心の状態ではなく人間のあり方であり、「美徳に一致する魂の活動」なのである。

美徳を身につける第一歩は、実行することだ。

現代社会が見失ってしまった何か大切なものをアリストテレスが語りかけてくれているように感じないだろうか。


「これからの「正義」の話をしよう」 早川書房 マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳








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