マイケル・サンデル 「これからの正義の話をしよう」 4 重要なのは動機

自由が拠ってたつ「自己所有」という概念は、突き詰めていくと急進的な考え方に行き着いてしまい、ほとんどの人が同意できないようなもの、例えば、本人の同意があれば自分の生命でさえ傷つける行為(例えば食べられる本人が同意した人肉食)が認められるような考え、を突きつけてくる。そこからは、無制限の自己所有権は認められないのではないか、そうだとするとどういう原理で制限はかけられるのか、という問いが自然と生まれてくる。

カントは、自己所有とは異なるものに基盤をおいて彼の理論を作り上げていった。それは、人間は誰でも理性を持っており、理性を通して行動ができるということであった。しかも、それが人間の尊厳の基盤でもあるという。深い洞察と思索によって裏付けられた確固とした考えで、強い感銘を受ける。

カントの理論は、自分の所有者は自分自身であるという概念にも、人間の生命や自由は神からの贈り物だという意見にも基づいていない。その基盤となっているのは、人間は理性的な存在であり、尊厳と尊敬に値するという考え方だ。
人間はみな尊敬に値する存在だ。それは自分自身を所有しているからではなく、合理的に推論できる理性的な存在だからだ。人間は自由に行動し、自由に選択する自律的な存在でもある。

カントによって提示される人間の尊厳に関する考え方は、非常に重要だと思う。しかも無制限の自己所有という極めて厄介に見えた問題を乗り越えてしまうのである。まずは、彼の言う自由という概念を理解する必要がある。

カントの考える自由な行動とは、自律的に行動することだ。自律的な行動とは、自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動することである。

生理的な欲求によって行動したり、社会慣習に従って行動しているとき、それはあたかも重力によって物体が落下するように、自分以外の力に支配されている。しかし、自らが自身に課した道徳律に従って行動するとき、それは自らの理性による行動であり、これこそがカントの言う自由な行動である。別の言い方で説明されている。

自由に行動するというのは、ある目的を達成するための最善の手段を選ぶことではない。それは、目的そのものを目的そのもののために選択することだ。これは人間には可能でも、ビリヤードの球(と大半の動物)には不可能なことである。

自律的な行動は、道徳的な行動だ。その行動が道徳的かどうかを知るには、行動の結果ではなく動機を知る必要がある。正しいことを正しい理由のために行なうとき、それは道徳的な行動となる。こう書くとわかりやすいが、具体的に行動するときには非常な困難を伴うと思う。現実で行動の動機が正しいかどうか、他の利己的な目的のための行動ではないか、と常に自己へ問い続けながら生きるのは至難の業だと思う。

カントによると人間は尊厳ある存在で尊重すべきである、人間の生命を手段として扱うのは間違っていることになる。したがって、いくら本人が同意したからといっても、人間を殺害したり、人の命を何かの手段として利用するのは、人間性を尊重していないことになり許されないのである。

ところで、カントの考えから言うと、道徳は理性的なものであり、経験的なものではない。功利主義の経験的なことを正義の基盤におくことはカントにとっては意味の無いことであった。

カントの考えは強力で、これ以上は望めないような気がする。しかし、驚くべきことにサンデルはカントにも満足していない。著者に従って、我々は探求の道を更に奥まで進むことになる。

「これからの「正義」の話をしよう」 早川書房 マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳








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