マイケル・サンデル 「これからの正義の話をしよう」 3 自由と制限

正義の基盤となる自由とはどういうものか。自由というと自分に関することを自分自身で決められるということだ思うが、しかし、自由とは一般に考えられているほどには単純なものではない、いやむしろ非常に難しいことが示される。

プロスポーツ選手、マイケル・ジョーダンへの非常に高額な課税は、彼が自分自身で稼いだものの一部を社会の幸福という理由で強制的に取り上げてしまう。しかし、彼が稼いだものが強制的に徴税されるとしたら、彼自身に労働をさせたのと同じにならないか、彼の時間を奪ったとこにならないか、という問いが投げかけられる。自由とは、自分が自分自身を所有しており、自分の所有しているものは、人に危害を加えない限りにおいて何をしても良いということに基盤を持っている。自分が労働して稼いだものは自分のものである。それに制限を加えて、強制的に取り上げても良いものだろうか。

また、生命や性に関する例も提示される。自分自身のことは、自分のものであるから自分でどうにでもしても良いはずではなかろうか。しかし、自分の命を自分で終わりにしてしまうのはどうなのか、それを幇助することはどうなのか。


自分を所有しているのは自分自身だという考え方は、選択の自由をめぐるさまざまな論議の中に姿を現わす。自分の体、命、人格の持ち主が自分自身ならば、それを使って何をしようとも(他人に危害を及ぼさないかぎり)自由なはずだ。こうした考え方の魅力にもかかわらず、その含意するところすべてが簡単に容認されるわけではない。

課税の時には、社会の幸福のためといって、自由を制限することに賛同した者が、命に関する事項では自由を制限することに反対の側へ回ることもある。また、その逆もある。正義の基盤である自由の考え方が、このように相対的になってもよいものであろうか。実際に現実の自分自身を省みると、その場その場に応じて自由への態度が変わっていることに気づかされる。自由こそが人間の基盤であると考えていたが、その基盤は実はもろいものではないのか、改めて考えさせられる。

自分の命を自分で絶つことは許されるのか、許されないとすれば、それは一体どういう原理に基づいて言える事なのか。もっと深く正義を追究しない限り、生半可な思索では、この自由への問いには答えることはできない。サンデルは、更に次の原理へと進んでいく。

「これからの「正義」の話をしよう」 早川書房 マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳








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