小林秀雄 「信ずることと知ること」

「信ずることと知ること」は小林秀雄の講演の内容を文章にしたもので、中公文庫から出版されている「人生について」という本に収められている。現代人、とりわけ理性的な人は、科学的なもののみを思考の対象としているが、世の中で経験される合理的・科学的でないものをどう考えるのかということが取り上げられている非常に刺激的で示唆に富んだ読み物である。

我々現代人は、合理的精神で説明がつかないものをナンセンスだと言って嘲笑し、思考から捨て去っている。合理的であることは、近代社会の中で効率的に生活していくうえでは重要なことであるが、果たして捨て去ったところにあるものをどうすればいいのだろうか。確かに、科学で説明できないことが、我々の周りでは経験されているのではないか。

小林秀雄が強い影響を受けた哲学者ベルグソンのことが引用されている。ある講演会にてベルグソンが聴講していたときに、超自然現象に関する話題で質疑が行われた。ある婦人は、夫が戦死した時刻に、夫の死ぬ様子を夢に見たのだという。これに対してある医者が、その婦人の事例に直接触れず、世の中には他に幻を見たけどそれが誤りだった事例がたくさんあると答えた。それを聞いた別の若い女性が「先生のおっしゃることは論理的には正しいかもしれませんが、何か先生は間違っていると思います。」といったそうである。ベルグソンもその若い女性が言っていることが正しいと思ったという。

その医者は、婦人の話を直接扱わないで、別の問題にすり替えてしまったわけである。しかしその婦人は、自分が実際に経験したことを話したわけである。科学者は経験を尊重しているが、それは我々が普通に経験しているものとは違う科学的な経験に置き換わっている。科学は、我々が生活の上で行っている広大な経験を合理的な経験に置き換え、計量化できるものだけを扱っている。科学はその計量化された経験だけに集中したが故に、大きな成功を収めているのだが、反面、切り捨てられている経験がそこにはあるはずである。

こうしてベルグソンや著者が話していることは、普通の意味で理性的に話している。しかし、それは科学的な理性ではないのである。我々が持って生まれた理性を、科学的な方法に置き換えている。科学のその狭い方法では扱えないものがたくさんあるのではないか。

自分は、合理的であることという現代人にとって極当たり前な考え方に縛られて、あまりにも合理的に現代社会を生きることだけに注意を凝らして、この世の中を見たり聞いたり感じたりしていなかったのではないか、そういう反省が心のうちに自然と湧き出てきたのである。

合理性の外側で広大に経験される世界に話は及んでいく。柳田国男の「遠野物語」の話に触れて、山の生活は我々平野人には忘れ去られた深遠なる経験の世界が残っているのだと。以下のようなことが述べられている。

彼等は、自分等を捕らえて離さぬ山野に宿る力、自分らの意志などからは全く独立しているとしか思えぬ、その計り知れぬ威力に向き合い、どういう態度を取って、どう行動したらいいか、真剣な努力を重ねざるを得なかった。これに心を砕いているうちに、神々の抗し得ぬ恐ろしさとともに、その驚くほどの恵も、これを身をもって知るに到ったのである。(p.246)

これを読んだ時に、ああこれこそが信仰ということなのかと感じた。小林秀雄が信仰者なのかはわからないが、非常に理性的であり、また信仰の神髄をわかっている人なのだと感じた。そして、上の文章を皆に分かち合いたいと強く思ったのだった。


「人生について」 中公文庫 小林秀雄著



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