魔の山 9 時間感覚について

著者はたびたび時間のことにふれている。

習慣とは、時間感覚が眠りこむことであり、すくなくとも鈍くなることであって、青春の日々が春日遅々として感じられるのに反して、それからの日々が日ごとにあわただしくはかなく過ぎてしまうのも、やはり習慣によるものにちがいない。私たちは生活へ新しいちがった習慣をはさむことが、生命をつづかせ時間感覚を新鮮にし、時間感得を若がえらせ、強め、ゆっくりとさせ、それによって生活感情そのものを若がえらせるただ一つの手段であることを知っている。(p184)
ハンス・カストルプは従兄のヨーアヒムを見舞うために来たのであって、療養までは予定していなかった。しかし、訪問予定の3週間がそろそろ終わろうとする時に風邪をひいてしまい、診察を受けたところ、3週間床に伏せることを命ぜられる。

彼がこの上で過ごしたつづく三週間について語るのには、初めの三週間の報告に必要とした紙数、ページ数、時間数、日数の数にもたりない行数、言葉数、秒数を必要とするのみであろう。(p315)

毎日が同じような日のくりかえしであるが、毎日が同じような日だとしたら、「くりかえし」というのはほんとうは正しいとはいえないだろう。単調とか、永遠に続く現在とか、悠久とか呼ぶべきだろう。君の枕もとへ正午のスープが運ばれてくる、ーー昨日も運ばれてきたように、そして、明日も運ばれてくるように。そして、それを見た瞬間に君は悠久の気にあてられるのである、ーーどんなふうにあてられるのか、どこからそれが吹いてくるのか君にもわからない。とにかくスープが運ばれてくるのを見たとたんに頭がくらくらとして、時間の区分がわからなくなり、区分が溶けあってしまい、君の目に万象の真実の姿として映じるのは、枕もとへ永遠にスープが運ばれてくる、前後のひろがりのない現在である。しかし、永遠をまえにして退屈であるとかないとかいうのは、矛盾もはなはだしい。(p317)

「魔の山」 岩波文庫 トーマス・マン著 関泰佑、望月市恵訳




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