マイケル・ゲルヴェン ハイデッガー『存在と時間』註解 2 理性という基盤

存在への問いは至上の問いである。存在への問いを、ハイデッガーは「ひと」を探究していくことで成し遂げていく。ここで言う「ひと」とは普通の意味での「ひと」ではなく、自分自身が存在しているということに気づいている「ひと」の一面を指している。ハイデッガーは、人が何であるかを求めているのではなく、人にとって「ある」(存在する)とはどういう意味かを問うている。人はいかに生きるべきかという問いではなく、存在することの意味を問うているのである。

存在の意味が意義をもつのは、自己自身の存在について問う者にとってだけなのである。(p.61)

自己自身の存在について問うとはいかなることであろうか。ハイデッガーは、「ひと」が死に面したとき、良心の声を聴くときの、「ひと」の理性の動きについて探究する。この理性の働きを見ることで、「存在するとはどういうことなのかという構造」を明らかにしようとしている。

理性の働きは論理的、科学的分析の認識には限られない、ということを最初に指摘したのはカントであった。『純粋理性批判』の第一節を読めばいやでも気付かざるを得ないことであるが、理性は、超越論的なはたらきによっておのれ自身を反省することができ、この反省を通じてまさにおのれの自由の基礎をきずくばかりか、おのれ自身に対して持つべき畏敬の念をも生み出すので、これは倫理的判断の原理をもなすことになるのだ、とカントは言っている。(p.098)

ここで、著者が指摘しているのは、理性という「ひと」に共通にあるものは、確固たる基盤たりえるということである。私の理性は個人的なものでもあるし、理性の働きという基盤を通じて、全ての人と通じ合えるのである。理性は、自分自身を省みて、「存在することの意味を了解する」ことができるというのである。しかも、それは心理的な意味ではなく、哲学的な意味で分析ができるとも言っている。

普段理性のことをもしていない。こうして改めて、自分へ中心部分へと沈思してみると、理性の不思議さに驚きを禁じえない。自分自身のものであり、ひとに共通の基盤でもあるということ。いざ自分の理性を見つめようとしても、それは簡単にできることではない。何か空虚なものを感じるだけである。しかし、自分が恐れを感じている瞬間、自分が怒りを感じている瞬間であれば、そのさらに奥に潜んでいる自分の自己を見つけ出すことはできそうである。そう考えていくと、ハイデッガーの言葉が自分に近づいてくるように感じる。


ハイデッガー『存在と時間』註解 ちくま学芸文庫 マイケル・ゲルヴェン著 長谷川西涯訳


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