マイケル・ゲルヴェン ハイデッガー『存在と時間』註解 存在への問い

ハイデッガーの『存在と時間』は、後世に対して多大なる影響を与え続けている著作だと思う。主題が魅力的である一方、内容は難解を極めており、哲学者にとっても難敵であると言うし、ましてや我々のような一般の読者が易々と読み解くことができる書物ではない。しかし、それにも関わらず、一般の読者がこの著作に憧れ読むことを諦めないのは何故であろうか。註解書の著者マイケル・ゲルヴェンは次のように説明している。

入門者や学生の方が『存在と時間』を読んで共感を覚えることが多いのは、まさにこの本が、ほとんど全ての人にとって非常に興味深い主題を含んでいるからである。死・良心・罪・本来的存在といったことに興味をひかれない人がありえようか?(p.018)

ところが、逆に、ハイデッガーが死・良心・罪・本来的存在といった事項を扱っているが故に、従来の哲学に親しんだ者や注意深い読者にとってハイデッガーの哲学は胡散臭いものに映ってしまう。しかし、そうした意見を呈する者が言うところの哲学からは、死・良心・罪・本来的存在を問うことは抜け落ちてしまい、人間にとっても最も豊かで重要な関心事は問われないままになってしまう。

結局、こうした問題は哲学へのもっとも根源的な促しであって、こうした問題を副次的なものとして、あるいは「無意味」なものとものとさえみなしてなおざりにするというのは、そもそも人間はなぜ哲学するのかという隠れた問題を押しつぶすことなのである。(p.034)

ハイデッガーが『存在と時間』で扱っている主題は、実は最も古くからある根本的なもの、「存在の意味への問い」(在るとはどういうことなのかを問うこと)である。こう書くと、壮大な理論の展開を想像してしまうが、実際に『存在と時間』の中で見出すことは、

人間の深い分析であり、人が世界の内におのれを見出す仕方であり、自己自身のかくれたる弱さをかばおうとする仕方であり、また、自分の内なる力の中心へと跳びいる仕方である。(p.038)

日々を自らに誠実に真剣に生きている人々が捜し求めている内容ではないだろうか。

ハイデッガーの描く人間は、彼の哲学そのものと同様、現代の奥深くでおこっている変化を反映している。それは、自己が真正でありうるか否かの責任を自らに背負い、自己自身の可能性に鋭く目ざめた人間の姿である。それはまた、非本来性によって、機械による無力化によって、自己の有限性に対する無理解によって、精神を逼塞させられる恐れのある人間でもある。ハイデッガーの言う人間とは、ドストエフスキーや、トマス・マンや、ヘルマン・ヘッセや、フリードリッヒ・ニーチェや、さらにはジャン・ポール・サルトルらの作品に見出されるような人間である。それは現代の若い人が親近感をもつような人間であり、科学万能主義者のそつのない計算術ではその本質をつかむことはできないような人間である。しかしそれは、感情や、「大義」へと身を投じることを自らの基盤とするような人間でもない。ハイデッガーの語る人間は、そのもっとも深くもっとも重要な特性が、深遠でかつ鍛錬された理性をもってする哲学的(単に「心理的」ではない)探求によって顕にされうるような、そうした人間なのである。(p.042)


魅力的な主題に溢れているが、註解書といえども決して容易に読み進められるものではない。しかし、本書を読み終えることができたとしたら、その苦労は大いに報われる。本書から得られる内容は、人生を真剣に悩む者にとって深く豊かなものとなるであろう。


ハイデッガー『存在と時間』註解 ちくま学芸文庫 マイケル・ゲルヴェン著 長谷川西涯訳





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