ポオ 「モルグ街の殺人事件」 1 分析力

「モルグ街の殺人事件」はポオ(エドガー・アラン・ポー)の代表作の一つで、実に見事な構成で論理が流れていく推理小説となっている。推理小説といっても小説の目的はいくらかあるのだろうが、ポオの場合は殺人事件そのものや人間関係といったところに興味はなく、人の持つ知性的なものの中で分析力というものに焦点を当てて、一見複雑な事実を分解し再び結合していく過程、つまり分析の魅力を描いている。

主人公C・オーギュスト・デュパンはパリに住む青年紳士であるが、物語を語る「僕」とデュパンはパリで知り合い意気投合して共同生活を、二人は世から隔絶したような生活を、送っている。パリのアパートに引きこもり、昼間は鎧扉さえ閉めて光を遮断した上で蝋燭の微かな灯の下で読書や議論に耽り、世の人々が寝静まった真夜中になると夜を愛するデュパンは街へ出て歩き回りながら昼間の議論や思索の続きをするといった、実に精神的なものだけを追求するような生活をしていた。

デュパンは優秀な分析家であったが、そのことを示す好例がある。デュパンと「僕」は、ある晩のこと、パレェ・ロワイヤールに近い、長い通りを歩いていた。二人とも考え事をしながら歩いていて、15分位、互いに口を利かずにいたのであるが、突然デュパンが
「その通り、たしかに、あれじゃ寸が足りん。やっぱり寄席(テアトル・デ・ヴァリエテ)の方が向くだろうよ。」(p.86)

と発言したのである。それは「僕」が頭の中で先程から考えていた事、役者のシャンティリは小男なので悲劇には向かない、というようなことを見事に言い当てたものであった。しかしである、「僕」は先程から何も口を利いていなかったので、それをデュパンが知っているとは思えなかった。度肝を抜かれた「僕」が尋ねるとデュパンが説明をしてくれた。

「僕」の考えがどのような思考の流れで、あるいは思考の跳躍とでも言った方が適当であろうか、役者のシャンティリに到達したかを、デュパンは「僕」以上に明瞭に把握していた。シャンティリ、オリオン、エピクロス、通りの鋪石、果物屋。それは、観察と分析による結果であった。

長い通りに入ったところで、「僕」は果物屋とすれ違いざまに舗装用の石材にぶつかって足をくじいた。「僕」が忌々しそうに舗装道路をうつむいて歩いているを見て、デュパンには舗装石のことを考えていることが知れたのである。その後、ラマルティーヌという小路に差し掛かったが、この小路は「載石法(ステレオトミー)」という名の先進的な方法で特別に舗装してあって、「僕」は急に明るい顔をして何か呟いたようであった。それでデュパンには、多分「ステレオトミー」という先進の言葉を知的な「僕」が嬉しそうに呟いたのだろうと推測された。さらに推理を進めて、「ステレオトミー」という言葉からすぐに連想される「アトミー(原子)」という言葉、そして原子論を唱えた偉大なギリシャ哲学者エピクロスまでを考えたのではないかと推し量ったのだった。最近の宇宙星雲説に大きな影響を与えたエピクロスに想いが行ったとすると、夜空を、それもオリオン大星雲を見上げずにいられないのはないかと結論し待ち構えていると、果たして「僕」が夜空を仰いだのである。デュパンはこの仕草を見て、自分が「僕」の思考の流れを正確に追いかけられているという自信を深めた。

オリオンからシャンティリへの思考の跳躍は、非常に専門的な知識と二人の間の日常生活の記憶によるものである。二人の日常の中で最近議論された事、「首(はじめ)の文字は、昔の音を失えり。」に絡んでいて、これはオリオンOrionという言葉は昔はウリオンUrionと書いたと言う事である。実は、二人が最近読んだシャンティリを評した雑誌「ミュゼー」にもこの「首(はじめ)の文字は、昔の音を失えり。」が引用されていた。それは、シャンティリが新しい大役を演じるに当たり改名をしたことを皮肉ったものであった。これらの背景を踏まえた上でデュパンは「僕」がオリオンからシャンティリを連想するであろうと結論していたのである。

この例は、人間の思考の流れ、跳躍がどのように行われているかを分析して説明し、分析の面白さを際立たせてくれている。出発点と到達点は意味から言うとかけ離れていて、脈絡がないように見える。しかし、人間の日常生活や性向までも含めて全体的な見方をすると、つながりが出てくるのである。これは、ここで描写された例だけではなく、人間の思考の流れ一般に言える事であろうし、そのために一層思考分析の面白さが味わえる。

デュパンの分析には、推理だけでなく、注意深い観察も、「僕」に対する知識も大切な役割を果たしている。そのことも魅力の一つであろう。

「黒猫・モルグ街の殺人事件」 岩波文庫 ポオ著 中野好夫訳



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