成井透 「罪の量(かさ)」 人の罪の重さ

四日市公害訴訟の様子を企業の側にいた人間の視点から描いた作品。四日市公害は、石油コンビナートにある化学系工場から排出される有害ガスの影響で、周辺住民に喘息をもたらした被害である。喘息は悪化すると呼吸困難に陥り、死に至ることもあるし、呼吸困難の症状があまりにもひどいので自ら死を選択する人さえ出たのである。

著者成井透はキリスト者であり、公害を出した企業の内部にいた人間でもある。物語に出てくる様々な立場の人間の気持ち一つ一つ全てが、著者が当時抱いていた複雑な心境を反映したもので、著者の偽らざる気持ちが登場人物全てを通じて著されているように感じられた。

企業の中にいて法律に従って業務を遂行していた多くの者に罪の意識は無かった。しかし、自分たちの企業が原因で多くの人々が病に侵され死に至る事実を知ったとき、ある者はその現実を否定し、ある者は現実から目を背け、ある者は良心から企業や自分自身の責任を責める。経営者として出世を狙う者には、問題を先送りし、その場をしのぎきることしか眼中にない。法律を守っていれば自らの起こしたことに責任にはないと信じている、あるいは信じようとしている。企業に勤める者の家族は、現実を認めようとしない。

企業の中で内部告発をしようとする者は、すでに企業から監視されており労務対策と称して圧力がかかったり遠方へ転勤になったりして、除外されていく。物語の中では、内部告発候補者が企業の下請け企業を介して殺害される事件さえ起きる。

被害にあった者達は、自分には一切何の落ち度もないという姿勢で企業を厳しく責めたてる。被害者を救済するという立場で参加する弁護士や共産党系活動家は、公害を起こした者には一切の人権はないとでもいうように、企業の担当者を締め上げる。中には精神障害を起こして病院へ送られる者すら出てくる。それでも責め立てた弁護士や活動家は何も問われないのである。


ここに登場する者たち全て(それは被害者も含めてである)の行動は、狂っていて、どこかに間違った点があるように感じられる。生きる者全ては何かの罪を背負っているということであろうか。

それは、読者である自分自身にも例外ではなく、自分も何かの罪を背負っている。石油コンビナートの恩恵を受けているのは自分たちである。恩恵だけ受け、苦難は人に押し付けて、公害を起こした企業を責める側に回って平気な顔をしている。自分自身の罪が意識され重く心にのしかかってくるのである。


「罪の量(かさ)」 菁柿堂 成井透著






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