トーマス・マン 「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」(上) 人間を語る魅力

題名から想像しがちであるが、この作品は、詐欺師が人を騙(だま)して生きる華麗な生活と挫折を綴った物語ではない。詐欺師とは、他人を騙(かた)って自分以外に成りすまし生きる者であるが、その行為故に自分自身のアイデンティティが希薄あるいは空虚であり、自己のアイデンティティを求めて生きる存在を象徴している。トーマス・マンは、自己の人間洞察の目を通して、表からは窺い知れない心の奥底に深く沈んでいる心情の機微を掬(すく)い上げて、主人公フェーリクス・クルルに人間とは何かを見事に語らせている。卓越した語りの力強さ、人間洞察の奥深さに圧倒されつつも語りの世界へと引き込まれていく作品である。


フェーリクスの容姿は、生まれながらにして人間的魅力に満ち溢れ、それは内面から輝く光に照らされているようで、高貴な雰囲気さえ漂わせている。しかし、フェーリクスは家族の誰とも似ていないし、一族の先祖に似た者はおらず、彼一人が突然こうした恵まれた姿を与えられたのであった。

容姿だけでなく、心の目も鋭く人生の真実を見抜き、自分自身が貴顕を有していることにも気付いていた。

私はもっとも繊細な木から刻み出された

自分が貴顕の存在であることを知っているフェーリクスは、自分自身にこう問うている。世界を小さいものと見るべきか、大きいものと見るべきか。世界を小さいものと考える態度は、他人の幸不幸を顧みず自らの描いた計画の通りに無慈悲にことを進める支配者や征服者に見られる。彼らは、世界をチェス盤のようにしか見ず、自分のことしか考えていない。

逆に世界を大きいものと見る態度は、人間を小さな存在と見做し、人生で何かを成す事を早くから諦めさせてしまう。無関心と怠惰に沈み、世界へ働きかけるよりも隠遁生活を好むようになる。

フェーリクスは、世界を大きいものと見ながら肯定的に生きる。世界は大きいのであるから、多くの魅力あることや多くの可能性に溢れている、それに働きかけて生きようとするのである。


愛についても問いかける。動物的な愛は、大きな快楽を味わう粗雑なやり方で、人を徹底的に満足させることで人を麻痺させるのだと。それは、世界から輝きと魔力を奪い、人間的な魅力も奪い、世界をつまらないものへと変えてしまうのだ。人間らしく生きるとはどういうことなのだろうか。トーマス・マンは次のように答えている。

人としての魅力を持つのは、求め続ける者だけで、倦み疲れた者はそうではない。他人はいざ知らず私は、結局のところ欲望の限定された偽りの消耗に過ぎない粗暴な行為よりも、ずっと繊細で貴重で、香りのようにはかないたくさんの満足を知っている。幸福を狙ってただ目標一直線というのは、幸福というものをわかっていないのだろうと思う。私の幸福はいつも、大きくて欠けるところのない広大なものに向かった。それは他の人が探し求めないような所に、繊細で薬味のきいた妙味を見出した。


フェーリクスは、ドイツ・マインツの近くラインガウ地方でシャンパン製造業を営む父の下に生まれいる。貴族ではないが、良い家庭に生まれたのである。父の会社が倒産すると、金銭的に破綻して、父は自殺する。残された一家は、父の友人でフェーリクスの代父シメルプレースターの助言に従ってそれぞれの生計を立てるべく、母はフランクフルトで下宿屋経営をし、姉はオペレッタの踊り子になり、フェーリクスはパリのホテルボーイになるために世の中へと飛び出していく。


ドイツからフランスへ国境を越えるためには、兵役を終えるか、兵役免除を受けるかする必要があった。フェーリクスは、形の上では徴兵志願をするのだが、兵役免除を受けるべく徴兵検査へと赴く。検査を受けるために裸になった場面が描かれている。兵役を逃れるための策の見事さも興味深いが、裸体の不公平さについて彼が語るのは深く心に響く。

裸という生まれたままの状態は人を平等にする、そこには何の序列も不公平もない、と言われることがある。こういう平等の考えに同意する者は多いかもしれないが、フェーリクスは、生まれたままの状態にこそ序列は存在すると考えている。裸体にこそ不公平な状態、つまり自然は高貴なものに肩入れするのだと。


フェーリクスは、二重性の中に美を見出している。フランクフルトの「ツム・フランクフルター・ホーフ」というホテルのバルコニーに兄妹が現れたときである。二重性の美というのは、未分化で未決定の根源的な何かであり、何か全体的なものを意味している。この後、下巻へ移って更に二重性が追い求められる。


フェーリクスは、代父シメルプレースターの口利きでパリの一流ホテルに潜り込むと、エレベーターボーイの職を得て働き始めるが、そこで宿泊客の一人で女性作家マダム・ウプレから誘惑される。

マダム・ウプレは、精神の女、つまりインテリである。心理学をはさんだ小説、情熱的な詩集を書く。トーマス・マンの筆は愛欲を通して精神を力強く語る。愛の行為の最中にフェーリクスに自分を「売女」と呼んで辱めるように強要する。

精神は精神でないものが欲しくて堪らないの、愚カデアッテモ生き生きとした美しいものが。惚れこんでしまうんだわ。ほんとに馬鹿もいいところ、美しくて神々しい愚かなものに惚れこんでしまう。これほど自分を否認する、否定することはないわ。精神はその前に跪(ひざまず)く。自己否認と自己否定の喜びにまみれて、それを崇拝する。それに貶(おとし)められて、精神は恍惚となる、、、

人間は愛無しには生きられない、しかし精神こそが人間らしさを形づくるのだ。愛の記憶は精神の中にしか残らない。

お前のディアーヌを忘れないでね、だって、考えてもごらん、お前はディアーヌの中で生き続けるのだから。これから何年もたって、もし---時ガオ前ヲ破壊シテモ、コノ心ハオ前ヲ青春トイウ祝福サレタ瞬間ノ姿ノママニ守リ続ケルワ。


(時折、カタカナで表記されるのは、ドイツ語から見たフランス語などの外国語が話されていることを意味している。)

「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」 光文社古典新訳文庫 トーマス・マン著 岸美光訳








コメント

このブログの人気の投稿

フレイザー 「金枝篇」 ネミの祭司と神殺し

ヴォルテール 「カンディード」 自分の庭を耕すこと

安部公房 「デンドロカカリヤ」 意味の喪失