トオマス・マン 「ヴェニスに死す」 芸術への献げ物

初老の作家グスタアフ・アッシェンバッハのひと夏が描かれているのに過ぎないのだが、芸術に全てを献げた芸術家の精神生活が全体的に浮き彫りにされているように感じた。天賦の才能を持ち、その才能を完成させるための鍛錬を怠らず、飽くなき精進の道を歩む姿。それは、芸術に対する厳格で真摯な態度であり、もって生まれた偉大な才能を高めるために自らを完全に律する克己の精神であり、そして本能的ともいえる芸術家としての美への憧れであった。

個人的に考えても、むろん芸術とは一つの高められた生活である。芸術は一段とふかい幸福を与え、一段と早くおとろえさせる。それに奉仕する者の顔に、想像的な精神的な冒険のこんせきをきざみつける。そして芸術は、外的生活が僧院のようにしずかであってさえも、長いあいだには、ほうらつな情熱と享楽とにみちた生活によっても、めったに生み出され得ぬような、、神経のぜいたくと過度の洗練と倦怠と、そして好奇心とを生み出すのである。(p.24)

外部の生活がいかに穏やかであっても、その精神世界では芸術家はいかに過度で過酷な体験を体験していることか。それは、強靭で尊大な精神を持ったアッシェンバッハにしても、その芸術への奉仕から解放されたいという一時的な逃避を起こさしめたのだった。彼は、自分が一時的な逃避をしていることを自覚しながら南国の休養地へと旅立った。

南国の気候は彼の体質には合わず、北国へ引き返すことも考えた。しかし、ヴェニスで彼は一人の美しい少年に出会ってしまった。

目を見はりながら、アッシェンバッハはその少年が完全に美しいのに気づいた。
(中略)
かれの顔は、最も高貴な時代にできたギリシャの彫像を思わせた。そしてそれは形態がきわめて純粋に完成していながら、同時に比類なく個性的な魅力を持っているので、見つめているアッシェンバッハは、自然のなかにも、造形美術のなかにも、このくらいよくできたものを見かけたことは無い、と思ったほどであった。(p.41)

芸術家として美を追い求めている彼にとって、それは非常な驚きであり、絶頂感をもたらすものでもあったのではないか。しかも、少年は人間らしい浅薄な醜い感情さえも有している。ただ形態的に美しいだけでなく、生命を吹き込まれて実在している。このような完全な美が実体を持ってまさに存在しているということ、芸術家の人生の中に真の意味で存在していることであった。美に魅入られた彼はヴェニスを立ち去ることもできず滞留し、少年を追い続ける。


少年を見守っている浜辺、潮騒の中で、彼は古代アテネでソクラテスとファイドロスが対話する光景を思い浮かべた。それは、この物語の中心テーマを語っているように思われる。美は詩人にとってどいういう意味があるのか。美を追い求める詩人にはどうなるのか。

なぜなら美というものは、私のファイドロスよ、ただ一つ愛に値すると同時に、目に見えるものなのだ。よく覚えておくがいい。美とは、われわれが感覚的に受けとり得る、感覚的にたえ得る、精神的なものの唯一の形態なのだ。それとも、もしそのほかの神的なもの、理性と徳性と真理が、われわれに感覚的に姿を見せようとしたら、われわれはどうなるだろう。むかしゼメエレがツォイスを見てそうなったように、われわれは愛情のために消え失せ、もえつくしてしまわないだろうか。だから美は、感じるものが精神へ行く道なのだ。---ただ道にすぎない。ほんの手段なのだよ、ちいさいファイドロス。(p.72)

精神世界へ到達するには神的なものを経由するしかないが、肉体をまとった人間が感覚的に受け取れるのは美だけだというのである。美を通して神的な世界へと行くことができる。しかし、その道はいかなる道なのか。少年との出会いが、アッシェンバッハに美による道を歩ませる。


ソクラテスの言葉は物語の最後でもう一度繰り返される。それは、この短いが見事に整った物語の持つ深い意味を告げてくれる。

美は感覚的な者のゆく道であるし、小さいファイドロスよ、芸術家が精神へ行く道なのだ。そこで君はしかし、愛する友よ、精神的なものへ行くために感覚を通らねばならぬ人間が、一度でも英知と真の人間の品位をかくとくすることができると思うかね。それともきみはむしろ(わたしはその決定をきみの自由にまかせるが)これは危険でかつ愛すべき道であり、真に邪道であり、罪の道であって、必ず人を邪路にみちびくものだと思うかね。(p.114)
(中略)
けだかい人を、かれ自身の美しいおごそかさがはずべきものとして排撃する、あおのおそるべき感情の罪悪へつれてゆくかもしれぬ。奈落へつれてゆくのだ。これさえも奈落へ。---こういうものがたしかに、われわれ詩人をそこへつれてゆくのだ。われわれにはまいあがる力はなくて、ふみまよう力だけしかないからだ。(p.115)

アッシェンバッハは、道を踏み間違えて、自らを美へと献げてしまった。この穏やかな起伏の少ない物語が、いかに烈しい熱情に裏打ちされたものであったかを知るとき、読者は驚嘆するのではないだろうか。美はそれほどに烈しく自らへ奉仕する者までも欲するのであろうか。芸術へと自らを献げた者にとって逆らうことのできぬ力が働いたのだろう。

最後に、ソクラテスの言葉に出てきた、”そのほかの神的なもの、理性と徳性と真理”のことが気にかかる。美を超えて更に先へと歩むにはこれらのものを探して進むべきではないだろうか。


「ヴェニスに死す」 岩波文庫 トオマス・マン著 実吉捷郎訳




コメント

このブログの人気の投稿

フレイザー 「金枝篇」 ネミの祭司と神殺し

ヴォルテール 「カンディード」 自分の庭を耕すこと

安部公房 「デンドロカカリヤ」 意味の喪失