小林秀雄 「考えるヒント」 ヒットラー

小林秀雄の評論が集めてある「考えるヒント」という本は、彼独特の思考が述べられていて、読んでいて知的な刺激を受ける。今まで自分は物を考えていなかったのではないかと、何度も思い返すほどである。

この本の中にヒットラーに関するものがある。ここに抜粋させてもらう。ヒットラーの人生観や思想の根本が鋭く見抜かれていて、改めて考え直すことが多かった。それは、自分のヒットラーに対する考えが表面的なもので、世間の普通に流布している意見をそのまま受け売りしていただけで、ヒットラーに対して少しも思索をしていなかったことを小林秀雄の文章は思い知らせてくれた。

特にヒットラーが、人生は闘争である、というときに、それは議論や思想でなく事実であるといういうことには驚きを感じた。しかも、簡単だからといって軽視できないということにも眠りから目を覚まさせられたような感じを受けた。その実に単純で軽蔑すべき思想であるが、しかし軽視できない現実世界からの体験に裏付けられていること、それらを深く考えていないということは非情な現実から安全な書斎へと逃避してぬくぬくとしている自分がいること、それらに気がつき恥じ入った。

あのようなヒットラーが犯した残虐な行為も、それは彼固有のことで、我々一般の者には関係ないと思いがちで有るが、人間の深い意識の世界にはその残虐性も全て含まれていることにも、目を逸らしていた自分に恥じ入った。彼は特異ではあったかもしれないが、彼の行為の源泉にある獣的な深層心理は、我々も持っているのだという現実、それは驚愕である。それから目を逸らしてはいけないのかも知れぬが、それに耐えられる精神力を持った者にしか許されぬことである。

彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。
人性は獣的であり、人生は争いである。そう、彼は確信した。従って、ヒットラーの構造は勝ったものと負けたものとの関係にしかありえない。そして彼の言によれば「およそ人間が到達したいかなる決勝点も、その人間の獣性プラス独自性の御蔭だ」と。
人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択に任すと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。
大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。
大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切り型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でた。
これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読み取ってくれる。
彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、およそ言葉というものを信用しなかった。これはほとんど信じがたいことだが、私はそう信じている。あの数々の残虐が信じがたい光景なら、これを積極的に是認した人間の心性の構造が、信じがたいのは当たり前のことだと考えている。彼は新でも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。だが、これは、人間は獣物だという彼の人性原理からの当然な帰結ではあるまいか。人間は獣物だぐらいの意見なら、誰でも持っているが、彼は実行を離れた単なる意見など抱いていたのではない。
三年間のルンペン収容所の生活で、周囲の獣物たちから、不機嫌な変わり者として、うとんぜられながら、彼が体得したのは、獣物とは何を措いてもまず自分自身だということだ。これは、根底的な事実だ。それより先に域用はない。よれならば、一番下劣なものの頭目になって見せる。興奮性と内攻性とは、彼の持って生まれた性質であった。彼の所謂収容所という道場で鍛え上げられたものは、言わば絶望のちからであった。無方針な濫読癖で、空想の種には困らなかった。彼が最も嫌ったものは、勤労と定職とである。
もし、ドストエフスキィが、今日、ヒットラーをモデルとして「悪霊」を書いたとしたら、と私は想像してみる。彼はこういうであろう。正銘の悪魔を信じている私を侮ることは良くないことだ。悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。福音書が、怪しげな逆説の蒐集としか映らぬのも無理のないことである、と。

「考えるヒント」 文春文庫 小林秀雄著

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