Steven Pinker, "The Stuff of Thought" 3  言論の自由と放送禁止用語

米国でも言論の自由で保護されない言葉がある。その言葉たちについても興味深い話が書かれている。

米国は世界の中でも基本的人権、民主主義という原則に最も真摯で厳格な国である。基本的人権、民主主義を支えるのは言論の自由であることは疑いがない。ところが、放送禁止用語、放送の中で話すことが禁止されている言葉があるというのは、言論の自由と対立するように思われる。

少し考えてみると、言論の自由は、いつでも無条件に保障されているわけではないということに気がつく。米国最高裁は、言論の自由によっても保護されない5つの種類の言葉と4つの例外が、これに当たる事を認めた。4つの例外というのは、詐欺、誹謗中傷、切迫した無法行為を引き起こす言葉、戦いの言葉である。詐欺と誹謗中傷、これらは真実を追求し共有するという言論の自由という目的を破壊するものである、そうであるから、詐欺と誹謗中傷は保護されるに値しないのである。
切迫した無法行為を引き起こす言葉、これは劇場などで”火事だ!”と叫ぶような行為のことである、これと戦いの言葉が保護されないのは自明であろう。

米国のTVで放送が禁止されているのは、卑猥な言葉、つまりSexと排泄に関する言葉である。ところが、卑猥な言葉が何故言論の自由によって保護されていないのかは不明瞭であり、卑猥かどうかについての判断も時代によって判断が揺れている。そのような理由が明確でないことで、言論の自由の保護から外れているというのはおかしいところである。

その理由を追いかけるために、卑猥な言葉から、タブーや呪いの言葉へと対象を広げていく。呪いやタブーというのは、神、病気、汚物、Sexにつながるものでなのである。タブーは、その文化で忌み嫌われた行為や言葉であるが、禁止されてはいないのである。禁止してるのではなく、忌み嫌われるという性格を着せることで文化に属する人々に注意を喚起する仕組みになっている。神のことを軽々しく扱ってはいけない。Sexや汚物にしても、不注意に接触すると、病気につながるのである。

こうしてタブーは人々の精神的な奥底に深く根ざしてきた。だから、タブーに関する言葉は、理由がはっきりしないが人々から嫌われることが多いのである。

ところが、タブーが次第にそうで無くなっていく事も当然生じている。例えば、”Fuck”という言葉はタブーであるが、しかし、米国人は”Fucking”という言葉はしょっちゅう使う。これは日本人が”くそ”という言葉をいろんな場面で使うのと似ているように思われる。

詐欺や誹謗中傷などのように確たる理由があって、言論の自由の保護から外れているものとは大きく異なり、卑猥な言葉のように人々の心に根ざした理由で保護から外れているものの面白さ。人の心理や文化人類的な歴史を垣間見ることができて非常に興味深く味わうことができる。

"The Stuff of thought", Steven Pinker, Penguine Books,



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