Steven Pinker, "The Stuff of Thought" 2  様々な理論

ピンカーの紹介によると、何故人は言語を習得し自由自在に操れるようになるのかという問題に対して、様々な理論が提唱されているようである。以下のものは、ピンカーが依って立つConceptual Semantics理論、人はある程度の言葉の枠組みを持って生まれてくる、というものを説明するときに、意味するところを際立たせるために例示される極端な理論である。

Jerry FodorというMITの学者が唱えたExtreme Nativism理論に、人は生まれつき5万語の言葉・意味を持っているというものがある。5万語というのは、人が大体持っている語彙の数である。人は生まれつき言語を持っていて、親から教わらなくとも自然に言葉を話せるようになるのだというのだそうである。

Radical Pragmatics理論というものもある。これは、言葉の意味は文脈において自由に変化するのだが、逆に言葉は固定の意味を持ち得ないというものである。

Linguistic Determinism理論では、人の言葉で思考に影響を与えないものはありえないという考え方である。これは前の2つと違いかなり強力な理論で、ピンカーはこれに反論するためにかなりの紙面を使っている。言語が思考に影響を与えるとしたら、ある言語を使っている人よりも別の言語を使っている人のほうが何か優秀な点が存在することになりそうだが、そういうことはないようである。

少し横道に逸れてしまうが、Linguistic Determinismに関する最もわかりやすく頭を悩ませる議論は、アマゾン地方に住む原住民が持つ数の理論である。アマゾンに住む彼らには、1と2しか数が無く、それ以上大きいものは全て「多数」になってしまう。これは言語が思考に与えている影響の最たるものではないかというのである。

数に関する議論は、アマゾンの原住民だけの話ではなく我々にも関係していて、非常に面白い内容である。アマゾンの原住民が数を持たないのは、我々であれば数を使って管理するような場面で、彼らは個別識別のやり方を取っているからのようである。例えば、狩猟に使う矢であるが、彼らは個別の矢を全て識別できしかも全て記憶しているから、1つの矢が無くなると、数を数えることなしにどの矢がなくなったのかをすぐに判別できるのである。

逆に我々が物体を認識するとき、数量が1や2であれば数を認識できるのであるが、それ以上の数量は直接認識できずに、数量をカウントしているというのである。例えば、部屋に2人の子供がいたとすると、すぐに2人と認識できる。ところが、繁華街の交差点に人がたくさん歩いていた場合に我々は数を認識しているのではなく数えているのである。数えなくてもある程度の数量は目算で出るが、それには誤差が入ってしまう。しかもその誤差は、数量に応じて大きくなる。まるでアナログ的な世界である。

言葉の魅力、言葉の不思議は尽きない。

"The Stuff of thought", Steven Pinker, Penguine Books,



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