プラトン 「プロタゴラス」 徳

プラトンの師ソクラテスとソフィストのプロタゴラスとの対話が描かれている。舞台は、紀元前5世紀ペルシャ戦争がギリシャ側の勝利で終結し、黄金時代を迎えたアテネである。政治的にも経済的にも最盛期を迎えたアテネには、古代ギリシャを取り巻く世界各地から先進的知識人が集まってきており、その中にはソフィストと呼ばれた人々も含まれていた。

ソフィストは、知識人であり、啓蒙活動を行い、先進的な教育をアテネの人々に施していた。啓蒙活動を真面目に行っていたわけだからプラスの面もあり、我々が抱く詭弁家というマイナスのイメージは、ソフィストの活動の一面に過ぎないのだという。

古代ギリシャ人たちは、人の持つべき優れた能力を徳(アレテー)と呼び、徳を身につけることを望んでいた。ここでいう徳とは、ものが持つ固有の優れた性質を意味している。人以外も徳は持っており、例を挙げれば、馬が速く走れる能力や、ナイフの切れ味のことである。人に当てはめると、道徳的な高尚さ以外にも、勇敢さ、知性なども含まれていた。

アテネは直接民主制を実現しており、この社会や政治制度で成功するためには優れた徳を有する必要があった。このため、アテネの人々は徳(アレテー)を学び優れた人物になって、社会的に成功しようと欲していた。中でも民衆を動かす弁論や演説の能力は重要視されていた。ソフィストは、徳は教えることができるとし、人々に教育を施していたのである。

ソフィストが自ら賢者を名乗り、自分が持っている知恵を授けることで高い授業料を人々から取っていたのに対し、ソクラテスは自らが無知であることを自覚していて、人々との対話によって知恵を求めようとしていた。ソクラテスの姿勢は、ソフィストの姿勢とは全く異なっていたのである。

ソクラテスは、徳は簡単に教え伝えることができるものなのか疑問を持っていた。また、もしも徳が簡単に教えられないとすると、一体ソフィストとは何をしているのか、ソフィストは何者であるのか、と疑問を持っていた。そこで、ソクラテスは友人とともにプロタゴラスを訪ね議論を始めるのである。


人間が共通に持つ徳(アレテー)というのは存在するのだろうか。古代ギリシャ人は知恵、勇気、節度、正義、敬虔が徳であると考えていた。ソクラテスは、徳は教えることができるのか、徳とは何かをプロタゴラスとの対話によって探究していく。そして、最後には人は知恵を持っていないのだという自覚に至る。

明確な結論が出ているわけではないが、議論の流れは非常に面白い。古代ギリシャ人たちが、人の優れている性質として、知恵、勇気、節度、正義、敬虔を挙げているは興味深く面白い。徳は教えることができないとしながらも、徳が存在している事実は否定おらず、徳の大切さを尊重している姿勢も共感できる。さらに、徳の中でも知恵を最重視しているところが素晴らしいと思う。


「プロタゴラス」 光文社古典新訳文庫 プラトン著 




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