ジョルジュ・バタイユ 「ニーチェ覚書」 

本書は、ジョルジュ・バタイユが選んだニーチェの言葉を集めた覚書である。序論の冒頭でバタイユは以下のように書いている。

私は本書を、息の長い、ゆっくりした瞑想へ差し向ける。

まさにその通りだ。ニーチェの言葉の断片は、神秘的な声の響きを以て我々を思索へと誘(いざな)う。何かがきらりと輝いたのを垣間見たような気分になって、改めて見直すとそれが何なのかは判然としない、だが、何かが確かに隠れているのは感じられる。追い求めようとしても捕まえられない。その隠れている真理らしきものは、我々に深く深く考えることを求めている。答えを見つけられない思索は際限ない反芻となり、いつしか瞑想へと誘(いざな)われる。


ニーチェの思想は最良の事や最も必要とされる事を目指していて、最良に向かうことへの拒絶や躊躇すらをも一切否定しているように思える。それは、キリスト教の道徳やプラトンの思想に関してさえ、同じ態度を取っている。

本質的に、ニーチェの思想は、波頭へ人を高める。波頭とは最も悲劇的なものが笑いをそそるものになる地点のことだ。この高みに留まっていることは難しい(おそらく不可能だ)。

人生は苦難や悲しみに満ちているが、その人生をありのままに受け容れ肯定的に生きること、それが悲劇的に生きることである。ニーチェにとって、悲劇的な生き方こそ人生肯定の最高の形式であった。そういう生き方は誰にでもできるものではない、有り余るほどの余剰の生きるエネルギーを持った者にこそ到達できる高みである。悲劇の極限に至った時に、笑いで以て人生を肯定できる者がいるとは。


「神の死」を扱った箇所、すなわち、「神の死」の恐ろしさを語る狂人を広場に集まった神を信じない人たちが嘲笑するという断章がある。神を信じない人たち、つまり無神論者達は、「神の死」が意味することを皮相的にしか理解していない。無神論者は、神は存在しないが世界はこれまで通り存在し続けるのだから何が問題であろうか、という態度である。

しかし、ニーチェは事の重大さに気づいて警鐘を鳴らしていた。「神の死」は、キリスト教の神の消滅だけを意味しているのではなく、国家、民族、人間、道徳など、我々が生きる上でその上に立脚している基盤の消滅を意味するとニーチェは気づいていた。人間の尊厳、価値判断の規範さえ消滅するというのである。基盤の存在しない世界でどうやって生きるというのだろうか。それが前掲した悲劇的な生につながるのである。



「ニーチェ覚書」 ちくま学芸文庫 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳




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