菊池良生 「神聖ローマ帝国」 王の霊威

神聖ローマ帝国とは何かという問いに答えるのは非常に難解である。神聖ローマ帝国を定義するのは難しい。そもそも「神聖」とは何に由来するのか、国土がドイツにありながら「ローマ」が国名に冠されているのは何故であろうか。この難解な問いへ解りやすく答えようとする一つの試みが本書である。軽いタッチで、史劇のように描写されており、神聖ローマ帝国と呼ばれた地域の歴史の大きな流れを把握できる。


19世紀後半のドイツ歴史学派によると、古代ローマ帝国の後継国家である「神聖ローマ帝国」は、962年オットー大帝によって開かれ、千年に渡りドイツ民族が支配してきた輝かしい国であるとされた。19世紀後半といえば、多くの小国家や自由都市に分裂状態にあったドイツがプロイセンによって統一されようとしていた、ドイツ民族主義の高揚していた時期であった。

ところが、ドイツ歴史学派による主張は誤りであるという批判が20世紀初頭に起こった。ツォイマーという学者が「神聖ローマ帝国」における帝国称号の変遷史を丁寧に調べ、歴史学派の主張がいかに非歴史的であるかを暴いている。

たとえ、神聖ローマ帝国が歴史学派が言うような確固とした国でなかったとしても、神聖ローマ帝国の歴史を辿ることは、ドイツを中心とした中央ヨーロッパを知る上で重要なことだと思う。

神聖ローマ帝国の歴史を本書に従って辿っていくと、国政の変遷というよりも、国王に名を連ねた幾人もの英雄達の苦闘を見ていくことになる。神聖ローマ帝国の前身から数えると、ピピン(カロリング朝)、カール大帝(西ローマ帝国復興)、コンラート1世、オットー大帝、ハインリッヒ4世(カノッサの屈辱)、フリードリッヒ1世(バルバロッサ)、フリードリッヒ2世、カール4世(金印勅書)、カール5世(ハプスブルク家)などが挙げられる。いずれも歴史に名を残している英傑である。



神聖ローマ帝国を知ろうとすると、ローマ帝国滅亡後のフランク王国にまで時代を遡ることになる。フランク王国は、現在のフランスを中心とした地域にゲルマン系のフランク族が建てた国で、メロビング家(メロビング朝)が代々王の座を襲ってきた。しかし、次第にメロビング家の力は衰退し、実際の権力は宮宰のカロリング家へと移っていったが、751年カロリング家のピピンは正式に王権を手にしカロリング朝を建てたのである。ピピンの長男カールが跡を襲ったが、カールはさらに国勢を強め、ザクセン、ボヘミア、イタリア、スペインへと王国の版図を広げていった。これは、古代ローマ帝国に迫るような国を出現させたことになり、ローマ帝国復興とみなす人々もいた。ローマ教皇レオ3世は、まだぜい弱であった教会の基盤を固めさらに勢力を伸ばすことを画策し、西ローマ帝国を復活させ、カールをその皇帝にし、さらには教皇がカールに戴冠することで教皇の政治的基盤を築こうとした。こうして、800年にカールは西ローマ帝国皇帝に即位した。

しかし、カール(大帝)が没すると、復興したはずのローマ帝国は、大まかにいうと現在のドイツ、フランス、イタリアにあたる地域へと分裂していく。当時のゲルマン人の習慣として領地は子孫によって分割して相続されたからであり、その後カロリング家の支配も断絶していく。


神聖ローマ帝国の歴史は、この分裂したドイツ(東フランク王国)にあたる地域の歴史を辿ることになる。東フランク王国では、カロリング家が断絶すると国王を選挙によってコンラート1世を選出した。国王が血統によって定められるのではなく選挙によって決められるという原理は、ゲルマンの古式に従ったものであった。この選挙による国王選出という原理は、神聖ローマ帝国において延々と引き継がれていく。コンラート1世は、自分の血統にではなく、家臣であるザクセン公ハインリッヒ1世に王位を譲るが、この時点で、カロリング家でもなく、またフランク人でもない、ザクセン人へと王位が移ったのである。ザクセン家による王権確立は、事実上のドイツ王国の誕生であった。


ドイツ歴史学派によって神聖ローマ帝国の開祖とされたオットー大帝はザクセン家に属している。オットー大帝は、父王によって進められた王権強化をさらに進め、有力貴族による連合国家的な色彩が濃かった王国において地方貴族の力を抑えて王権を強固なものにした。オットー大帝が考え出したのは、教会領によって地方貴族の力を抑える政策であった。(「帝国教会政策」) しかし、この政策がもとで教会領領主を誰が任命するかという教皇との争い(叙任権闘争)が後代の皇帝達へ圧し掛かってくることになる。

さらに、ドイツ国内でのオットー大帝による教会支配を確実にするために、ローマ教皇の要請に応える形でイタリア遠征を行い、教皇に敵対していたイタリア王を討ちイタリア王国をドイツ王国に接収し、962年教皇から皇帝戴冠を受けるのである。つまり、オットー大帝は皇帝とドイツ王とイタリア王を兼ねていたことになる。ところが、神聖ローマ帝国という国名はまだ存在せず、皇帝とはいっても何国の皇帝かはどこにも記載されていないのである。


こうして、帝国初期にイタリア政策と叙任権闘争という二つの課題の種が撒かれたが、皇帝ハインリッヒ4世と教皇グレゴリウス7世が対立したカノッサの屈辱という事件はこの課題が表に出た典型的な例だったといえよう。カノッサの屈辱という事件はあまりにも劇的であるがためにグレゴリウス7世の完全な勝利がなったと考えがちであるが、この事件後も皇帝と教皇の激しい闘争は続いたのである。グレゴリウス7世は、ハインリッヒ4世とのイタリア戦に備えてノルマン軍をローマへ雇い入れたが、ノルマン軍がローマの略奪を繰り返したため教皇はローマ市民の信頼を失い、グレゴリウス7世自身は他国へ亡命せざるを得なくなり、亡命地にてこの世を去る。二人の闘争は、ハインリッヒ4世の勝利で終わったと言ってもいいかもしれない。


帝国内の領主が皇帝党(ギベリン派)、教皇党(ゲルフ派)に分かれて争いを繰り返すようになった。その中で現れたバルバロッサ(赤髭帝)と呼ばれるフリードリッヒ1世も傑物であった。バルバロッサは、イタリア国内を支配してドイツと合わせて真の世界帝国を築こうとした。当時イタリアにはロンバルディア都市同盟と呼ばれた諸都市があり、金融取引で栄えていたが、バルバロッサはこのロンバルディア都市同盟と闘った。

ロンバルディア都市同盟との闘いでは、功労のあったバーベンベルン家がオーストリアに公爵領を受けているが、当時封土は男子相続のみが許されていた中、女子相続も認められる「小特許状」まで手に入れている。この公爵領が後に帝国皇帝を世襲することになるハプスブルク家領の始まりとなる。

バルバロッサは、教皇による皇帝戴冠ひいては教皇による世俗権力への介入を良しとせず、皇帝の統治権は神から直接与えられているとする理論を立て、国名を初めて「神聖帝国」と名乗ったのである。


13世紀初めに皇帝に就いたフリードリッヒ2世は、その30年以上の統治期間中にほとんどドイツに滞在せずイタリアでの戦いに力を傾けた。教皇に命令され十字軍遠征を行ったが、アイユーブ朝スルタンのアル・カーミルと書簡にて学問の話を取り交わすまでの仲になる。フリードリッヒ2世もアル・カーミルも学識豊かな人物で、さらにフリードリッヒ2世に至っては当時の学問の中心であったイスラムを理解しアラビア語さえ習得していた。互いの人物像を書簡にて知り合った皇帝とスルタンは何度も交渉を重ね、皇帝は一戦も交わさずに聖地エルサレムを奪還した。

驚くことに、皇帝フリードリッヒ2世は帝国を諸宗教の共存、多元的価値の共存する世界にしようと考えていた。彼が1231年に公布した新法典は、ローマ教皇の神権政治的な国家を否定し、皇帝の意志の独立を謳ったのは、その考えの表れである。また、フリードリッヒ2世は、「諸侯の利益のための協定」をドイツ諸侯との間で結び、ドイツ諸侯は大きな特権を得ることになり、ドイツは分裂領邦が併存する領邦国家へと進むことになった。


フリードリッヒ2世が死去してから、ハプスブルク家のルドルフ1世が即位するまで、「大空位時代」が起きることになる。この大空位時代、皇帝に即位した者はいなかったし、皇帝に値する人物もいなかった。この当時皇帝を選挙するいわゆる選帝侯は、マインツ大司教、トリーア(トリエル)大司教、ケルン大司教、プファルツ伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア国王の7人であった。彼らは自分たちの意のままに操れる傀儡王を仕立てて、権力を手にしようと目論んだが適当な人物が現れず、結局ハプスブルク家ルドルフを選ぶことになる。以降700年に渡りヨーロッパに大きな影響を与えるオーストリア・ハプスブルク家の誕生である。


14世紀半ば皇帝となったカール4世は、ドイツ王国、イタリア王国、ブルゴーニュ王国に君臨する神聖ローマ帝国皇帝と言っても実情はおひざ元のドイツ国内すら支配下におけない現実を理解していたカール4世は「金印勅書」と呼ばれる文書を交付した。金印勅書は、神聖ローマ帝国皇帝の選挙規定と帝国議会の法的基盤が記されていて、帝国の国体に決定的な影響を与えた。

それまでは、複数の皇帝が立つ混乱が生じていたが、複数帝は、金印勅書に書かれた手続きがあるため事実上不可能となった。選帝侯の結果が教皇の承認を必要としないという条文も画期的で、教皇の影響を排除できた。選挙候は帝国の上級官職を与えられて実質的な特権(裁判権や鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権など)も手に入れた。選帝侯はさらに世襲領地を与えられ、実質的に帝国の中に7選帝侯王国ができたようなものであった。


こうして見てくると、神聖ローマ帝国は、神聖でもローマでもない、ドイツ諸邦の連邦であることがわかる。「神聖」や「ローマ」という言葉には、それぞれの時代を自らの才を発揮して力の限り闘った皇帝達の意思が現れているように思えてならない。神聖ローマ帝国の歴史は、簡単には説明ができるものではなく、個々の事件の統合と深い洞察による歴史観が必要とされるもので、じっくりと時間をかけて味わう類の楽しみだと感じる。

本書にて「王の霊威」という言葉が紹介されている。王位を継ぐ者には神が与えたもうた「王の霊威」が備わっていなければならないという考え方が中世には広く信じられていた。たとえ優れた英雄が出現したとしても、「王の霊威」を持たない者には王位は授けられないし、実力だけで王位に就いたとしても簒奪者とみなされ臣下が従わなかったのである。さらに「王の霊威」は個人に授かるものではなく、家系、王家に授けられるものとされた。神聖ローマ帝国の皇帝は、「王の霊威」を持つとみなされた家系だけが受け継ぐことができた。選帝侯によって皇帝が選ばれたとしても、選帝侯は「王の霊威」を持たぬ者を指名することは事実上できなかったのである。そういう意味では、神聖ローマ帝国の歴史は、「王の霊威」を巡る歴史と言えるかもしれない。



「神聖ローマ帝国」 講談社現代新書 菊池良生著 




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