トッド&クルバージュ 「文明の接近」

「文明の衝突」、つまりイスラム圏は本質的に世界のその他の文化圏と相容れない性質を持ち近代化を拒絶して分離され衝突を繰り返しているという考え方であるが、本書は「文明の衝突」を否定し、イスラム圏といえども近代化を受け入れやがては世界のその他の地域と収斂していくという考え、「文明の接近」(「文明の収斂」と言った方が適切かもしれない。)を提示するものである。イスラム圏が近代化していくという非常に興味深い分析は、人口学的な方法論によって論証される。

イスラム教の影響にも関わらずイスラム圏が近代化するということは、世界はいずれ同質な方向へと収斂していくのではないか、というのが著者等の主張である。これは全く同質の社会が現れるということではなく、ヨーロッパ社会のように、細かく見ると多様であるが、しかし大きな意味では同質である社会、そのような社会が到来することを著者等は予想している。


人口学的には近代化とは出生率(合計特殊出生率、一人の女性が一生に産む子供の数)の低下を意味する。近代化が完了したヨーロッパや日本などの国々を見ると、以前は出生率が6を超えるような高い数字であったものが、近代化のプロセスを経て出生率が2あるいはそれ以下の数字に落ち着いている。

地球上のイスラム圏全体にわたって人口学的な調査をした著者等の研究によると、イスラム圏では程度の差はあるせよ人口学的な近代化が始まっている。イランなどに至っては出生率が2に近い値になっている。本書では、地球上のイスラム圏全体(中東、南アジア、東アジア、ロシア圏、アフリカなど)を地域ごとに詳細な統計データを出して、どの国でどの程度の人口学的な近代化が進んでいるか、その進展度の理由は何かを綿密に分析している。


出生率の下落は単なる数字の問題ではない。近代化プロセスによって社会的、文化的な変革と個人の心的な変革が起こり、その結果として近代化の移行期にある国々では社会的な混乱(移行期危機)が生じやすい。

ヨーロッパ社会の近代化は人口学的にどのように理解されるのであろうか。ヨーロッパでは、非常に長い時間がかかって識字化、脱キリスト教化、出生率の低下が起こったが、これらが原因となって当初はキリスト教宗派別(特にカトリックとプロテスタント)の各地域間の差異が際立つのであるが、次第にヨーロッパ全体が収斂に向かっていくというプロセスを歩むのである。


近代化の移行期危機の例を挙げるなら次のようなものがある。イングランドでは男子の識字率が過半数を超えた時期にピューリタン革命(1649年)が起こり、フランスでは、1730年頃パリ盆地で男子の識字率が過半数を超え、1760年頃北部フランスの小都市に於いて出生率が下がり始め、1789年のフランス革命が起こっている。ロシアでも1900年頃に男子の識字率が過半数を超えた後、1917年のロシア革命が起こっているのである。

識字率が過半数を超えるということは、親の世代は文盲なのに対して子供の世代は読み書きができるようになることを意味するが、これは家庭内での親の権威が崩壊することになる。それは一家庭の話に留まらず、その共同体全体に及ぶ古い権威の崩壊が生じるわけで、社会システムが不安定な状態に陥るのである。

移行期危機は、現代のイスラム圏国家にとっても同様に影響が出てくると予想される。イスラム圏の外側からは社会の動揺が見えてこないかもしれないが、その社会の内側では静かにゆっくりとではあるが大きな動きが始まっていると考えられる。本書は、世界の動きを考える上で、非常に有効な始点を与えてくれる。


『文明の接近』 エマニュエル・トッド、ユセフ・クルバージュ著 石崎晴己訳








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