マイケル・ゲルヴェン ハイデッガー『存在と時間』註解 4 ニーチェの超越

19世紀後半、キルケゴールやニーチェに代表される哲学者達は人間存在への問いつまり実存への問いへと向かった。その流れは20世紀になっても衰えることはなく、ハイデッガーや多くの哲学者たちが実存の意味を探るようになっていった。

何故実存の意味が問われるのか。伝統的価値の崩壊、社会の劇的な変化、伝統的哲学の不毛など、様々な理由が出されているが、こうした社会学的、心理学的理由ではなく、哲学の流れには哲学的考察が必要であろうと著者は述べている。死や意識や罪や自由と言った実存の問題を、過去の偉大な哲学者たち、アリストテレス、トマス・アクイナス、デカルト等が顧みなかったわけではないが、実存の問題がこれらの哲学者たちの哲学の究極的根源を成している訳ではない。ニーチェやハイデッガーは、死や意識や罪や自由と言った人間の極めて弱い側面をとらえることで、彼等の偉大な哲学の全重量を支えようとしたのだという。それは、実存を問うことでしか哲学を支える方法がないからである。

実存が哲学の根源であるという意識は、とてつもない天才的な哲学者イマヌエル・カントにその原型を見出すことができる。彼の著書『純粋理性批判』において、カントは科学と数学が如何にして可能であるかを分析している。カントによれば、人間が科学と数学を成すことができるのは、感覚を通じて直接に理解する能力と、悟性の厳密な規則を用いることができる能力とによるのである。カントはこの偉大な発見にも満足することなく、更に真理を追究して新しい立場に立つ。カントが科学と数学に関する人間精神の働きを発見できたのはどういう位置からだったのだろうか。それは、彼が「ア・プリオリ」と呼ぶ方法によってであった。

「ア・プリオリ」という視点が科学に使えたとすると、それは哲学にも使えないものであろうか。しかし、カントはそこで難問にぶつかる。カントによれば、科学が可能になるのは、科学的な悟性の限界を指摘することによるのであった。限界を知るには、限界を超え出て行かなければならない。科学という安全確実な世界を飛び越えた先で、何が悟性の正しさを保証してくれるのだろうか。


カントの難問に答えようとするならば、哲学者を批判できるのは物自体という視点からであるといえようか。カントによれば、人は物自体をあるがままに知ることはできないが、しかし自分の為さねばならぬこととしてならば理解することができるのである。人間が自分自身を物自体的に理解するのは、道徳的主体としてなのであった。(p.466)

この超越と呼ばれる難問を解き明かそうとする哲学の流れが、カント後に脈々と続けられたのである。その一つがニーチェであった。あらゆる哲学の内でも最も難解でかつ魅力ある書、『ツァラトゥストラは語りき』において、ニーチェはこう語っている。

超越論的な視野は哲学にとっても、そしてまた実際価値ある人生にとっても必要なものであるが、それは最早むかしの哲学者たちのとったような無限の視野ではあり得ない。なぜならば、「民衆」に殺害されて「神は死んだ」のであるから、と。しかしそれにもかかわらずニーチェは、もっと厳密で用心深い哲学者たちを顰蹙させるような劇的手法で、かれの哲学の核心をえぐり出す - 超人は無限である、と。「神を殺して」しまったからには、人はもはや神を価値の源泉として、したがって哲学の視点として信じることはできなくなってしまい、また神を「歴史の絶対的精神」などという偽装のもとに考えることすらできなくなってしまったのである。(p.467) 

ニーチェの言わんとするところは、

無限が論理的に不可能だということではなく、人間的行為や人間理性の価値や機能の視点から、したがって当然「その他の」視点から無限を形成することはできないということなのであった。超越はやはり必要である。しかしその超え行きは、有限なる人間の視野から神の無限へなのでは決してなくて、人間の有限な視点から、やはり有限ではあるが超越的な超人の視点へなのである。(p.468)

ニーチェの超人の特質は、単に理性的であるのではなく、実存論的であることである。大胆、自我的、勇気、貴族的落ち着きといった特質をそなえている。ニーチェによれば、


人が超越することができるのは、認識能力や知力によるのではなく、その人の存在する仕方によるのである。 (中略)人が新しい価値を生み出すというような仕方で、また自分の歴史と自分の未来の歴史のともどもの重みを毅然として雄々しくひき受けるというような仕方で存在しないかぎり、超越的な視野は得られないのである。(p.469)

ニーチェの如何にして超越が可能であるかという大胆な説、つまり決意的に生きるということ、を見て、優れた哲学者達はカントの心の中にあったのもおそらく同じようなことであったのではないかと考えた。

カントは結局のところ超越論的視点と人間の自由とを同一視していたのである。(p.469)

同じくマルチン・ハイデッガーも、超越とは自由であると言っている。ハイデッガーは、

自由と超越の基盤は人間理性、純粋に認識的な、計測的機能の内にあるのはでなく、人間の存在するその仕方にあるのだと論じている。(p.470)

ニーチェもハイデッガーも、そしておそらくカントも、超越は実存論的な枠組みの中でしか語られえないということを理解していたのだった。だからこそ、実存への問いが哲学の基盤となりえるのである。

実存の問いは単なる思索のための思索では決してない。人間の生命に深く根ざした真の生き様である。如何なる決意を以って自らの人生を引き受けていくかという問いへの答えでもある。著者は罪ということについて以下のように書いている。


人が新しい洞察に目を開かれたときには罪は人間存在に、超越論的視点が人間意識における生命力であることを教えてくれる。罪を招かれざる重荷とみなして取り除こうと努めたりすれば、その結果、罪を価値としてみる人生よりもはるかに望ましからぬ人生を送ることになってしまおう。なぜならば、罪というものがなかったならば人は決して自己自身に責任をとることができず、そしてこの責任というものなくしては、自由だとか創造性だとか言うことの意味もしっかりと把握し得ないからである。(p.473)

これらの議論の路を辿るとき、人間の持つ至高の意思というようなものを感じるのである。議論のための議論ではなく、自分の生の苦しみと如何に向き合うべきかという真摯な問い、それは自分を乗り越えて次々と生まれ変わりながら生きることではないか。それは、人は如何に生きるべきかという、古くて新しい問いを問い続けることになる。


ハイデッガー『存在と時間』註解 ちくま学芸文庫 マイケル・ゲルヴェン著 長谷川西涯訳


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