小林秀雄 「本居宣長」(上)(下) 4 歌の姿

本居宣長の歌論に、歌の「姿は似せ難く、意は似せ易し」というのがあるという。これは意外に感じられることであろう。少なくとも私にとっては、受け取る者に非常な驚きを与えながら心に飛び込んでくる言葉であった。一般には、言葉の意味を掴むのは難しいが、口真似をするのは子供にでもできる、だから、意は似せ難く、姿は似せ易いと信じられているのではないか。宣長の言うことと反対のことを人は信じているのではないか。

このことは、言葉とは何なのかという本質を掴まぬ限り理解できないことのように感じられる。宣長の歌論に驚かされる者は、言葉を、ある意味を伝えるための単なる道具としてか捉えてはいないのではないか。意味を伝えるための道具であるから、道具は人まねでも使えよう、わけがわからぬ者でも道具は使えよう、そういう思い込みがあるのかもしれない。

ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずることではないか。そこでは、麗しいとはっきり感知できる姿を、言葉が作り上げている。それなら、言葉は実体でないが、単なる符牒とも言えまい。言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない。万葉歌の働きは、読む者の創造裡に、万葉人の命の姿を持ち込むというのに尽きる。(p.317)
意味を伝えるための道具でしかないのであれば、目的が達せられてしまえば、言葉の美しさや巧みさは重要性を失ってしまう。自然科学の論文や教科書に対して感じる無機質感は、このことを現しているように思われる。

「万葉」の秀歌は、言わばその絶対的な姿で立ち、一人歩きをしている。(p.317)

非常な驚きをもって受け止められるかもしれないが、言葉はそれ自体で自立して存在できるのである。言葉というものが持つ何という奥深さであろうか。

言葉は、歌の上だけで、姿を創り出すのではない、世の常の生活の間で、交されている談話にも、その姿というものはあるのであり、その作用は絶大である(p.318)

我々は言葉の姿を感じられているだろうか。

「本居宣長」上・下 新潮文庫 小林秀雄著



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